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青春の逆説 - 1
les Paradoxes de la Jeunesse
織田作之助
Oda Sakunosuke
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source: https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/files/732_19841.html
+目次
一
お君は子供のときから何かといえば跣足になりたがった。冬でも足袋をはかず、夏はむろん、洗濯などするときは決っていそいそと下駄をぬいだ。共同水道場の漆喰の上を跣足のままペタペタと踏んで、
「ああ、良え気持やわ」
それが年頃になっても止まぬので、無口な父親も流石に、
「冷えるぜエ」とたしなめたが、聴かなんだ。蝸牛を掌にのせ、腕を這わせ、肩から胸へ、じめじめとした感触を愉んだ。また、銭湯で水を浴びるのを好んだ。湯気のふき出ている裸にざあッと水が降り掛って、ピチピチと弾み切った肢態が妖しく顫えながら、すくッと立った。官能がうずくのだった。何度も浴びた。
「五へんも六ぺんも水かけまんねん。良え気持やわ」と、後年夫の軽部に言ったら、若い軽部は顔をしかめた。
お君が軽部と結婚したのは十八の時だった。軽部は小学校の教師、出世がこの男の固着観念で、若い身空で浄瑠璃など習っていたが、むろん浄瑠璃ぐるいの校長に取り入るためだった。下寺町の広沢八助に入門し、校長の驥尾に附して、日本橋筋五丁目の裏長屋に住む浄瑠璃本写本師、毛利金助に稽古本を註文したりなどした。
お君は金助のひとり娘だった。金助は朝起きぬけから夜おそくまで、背中をまるめてこつこつと浄瑠璃の文句を写しているだけが能の、古ぼけた障子のようにひっそりした無気力な男だった。女房はまるで縫物をするために生れて来たような女で、いつ見ても薄暗い奥の間にぺたりに坐り込んで針を運ばせていた。糖尿病をわずらってお君の十六の時に死んだ。女手がなくなって、お君は早くから一人前の大人並みに家の切りまわしをした。炊事、針仕事、借金取の断り、その他写本を得意先に届ける役目もした。若い見習弟子がひとりいたけれど、薄ぼんやりで役に立たず、邪魔になるというより、むしろ哀れだった。
Depuis son enfance, O-kuni avait une irrésistible envie de marcher pieds nus à la moindre occasion. Même en hiver, elle ne portait pas de tabi et elle s'empressait bien sûr, l'été venu, de quitter ses geta dès qu'il s'agissait de faire la lessive. Elle piétinait alors le stuc du lavoir commun de ses pieds nus, produisant un clapotis sonore.
— « Ah, que c’est agréable ! » soupirait-elle.
Comme cette habitude ne passait pas avec l'âge, son père, pourtant taciturne, finit par la réprimander :
— « Tu vas prendre froid », disait-il, mais elle ne l'écoutait guère.
Elle aimait poser des escargots sur la paume de sa main, les laisser ramper le long de son bras, de son épaule jusqu'à sa poitrine, savourant leur contact moite. Au bain public, elle adorait s'asperger d'eau froide. Tandis que l'eau ruisselait sur sa peau nue d'où s'échappait encore de la vapeur, son corps jeune et ferme tressaillait étrangement avant de se redresser d'un coup. Ses sens s'éveillaient. Elle recommençait encore et encore.
— « Je me jetais de l'eau dessus cinq ou six fois d'affilée. C'était un délice », raconta-t-elle plus tard à son mari Karube. Le jeune homme grimaça.
O-kuni avait dix-sept ans lorsqu'elle épousa Karube. Instituteur dans une école primaire, il était obsédé par l'idée de réussir socialement. Bien que jeune, il s'était mis à apprendre le jōruri, mais c’était uniquement pour s'attirer les faveurs de son directeur, qui en était fanatique. Il devint l'élève de Hirozawa Hachisuke à Shimoteramachi et, suivant les traces du directeur, commanda des livrets de pratique à Mōri Kinsuke, un copiste de manuscrits de jōruri vivant dans une ruelle de Nihonbashi-suji, dans le cinquième district.
O-kuni était la fille unique de Kinsuke. Ce dernier était un homme apathique, aussi effacé qu'une vieille cloison de papier, dont le seul talent consistait à rester courbé du matin au soir pour transcrire inlassablement les textes de jōruri. Sa femme, elle, semblait être née uniquement pour la couture ; on la trouvait toujours maniant l'aiguille, assise dans l'ombre de la pièce du fond. Elle mourut du diabète quand O-kuni avait seize ans. Privée de présence féminine, la jeune fille dut très tôt tenir la maison comme une adulte. Elle s'occupait de la cuisine, de la couture, éconduisait les créanciers et se chargeait de livrer les manuscrits aux clients. Il y avait bien un jeune apprenti, mais il était si distrait qu'il n'était d'aucune utilité ; plus qu'une gêne, il inspirait la pitié.
Lorsque O-kuni se rendit à la pension de Karube, à Uehonmachi-kyuchome, pour lui livrer un manuscrit, l'homme de vingt-huit ans ouvrit de grands yeux ronds. O-kuni portait un kimono trop court qui laissait voir ses chevilles sur plusieurs centimètres ; Karube, malgré lui, détourna le regard.
お君が上本町九丁目の軽部の下宿先へ写本を届けに行くと、二十八の軽部はぎょろりとした眼をみはった。裾から二寸も足が覗いている短い着物をお君は着て、だから軽部は思わず眼をそらした。
「女は出世のさまたげ」
熱っぽいお君の臭いにむせながら、日頃の持論にしがみついた。しかし、三度目にお君が来たとき、
「本に間違いないか、今ちょっと調べて見るよってな、そこで待っとりや」と坐蒲団をすすめて置いて、写本をひらき、
――あと見送りて政岡が……、ちらちらお君を盗見していたが、次第に声もふるえて来て、生唾をぐっと呑み込み、
――ながす涙の水こぼし……
いきなり霜焼けした赤い手を掴んだ。声も立てぬのが、軽部は不気味だった。その時のことを、あとでお君が、
「なんや斯う、眼エの前がぱッと明うなったり、真ッ黒けになったりして、あんたの顔こって牛みたいに大けな顔に見えた」と言って、軽部にいやな想いをさせたことがある。軽部は小柄な割に顔の造作が大きく、太い眉毛の下にぎょろりと眼が突き出し、分厚い唇の上に鼻がのし掛っていて、まるで文楽人形の赤面みたいだが、彼はそれを雄大な顔だと己惚れていた。けれども、顔のことに触れられると、さすがに何がなし良い気持はしなかった。
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……その時、軽部は大きな鼻の穴からせわしく煙草のけむりを吹き出しながら、
「この事は誰にも言うたらあかんぜ。分ったやろ。また来るんやぜ」と駄目押した。けれども、それきりお君は来なかった。軽部は懊悩した。このことはきっと出世のさまたげになるだろうと思った。序でに、良心の方もちくちく痛んだ。あの娘は妊娠しよるやろか、せんやろかと終日思い悩み、金助が訪ねて来ないだろうかと怖れた。己惚れの強い彼は、「教育者の醜聞」そんな見出の新聞記事まで予想し、ここに至って、苦悩は極まった。いろいろ思い案じた挙句、今の内にお君と結婚すれば、たとえ妊娠しているにしても構わないわけだと気がつき、ほッとした。何故このことにもっと早く気がつかなかったか、間抜けめと自ら嘲った。けれども、結婚は少くとも校長級の家の娘とする予定だった。写本師風情の娘との結婚など夢想だにしなかったのではないか。僅かに、お君の美貌が彼を慰めた。
某日、軽部の同僚と称して、薄地某が宗右衛門町の友恵堂の最中を手土産に出しぬけに金助を訪れ、呆気にとられている金助を相手に四方山の話を喋り散らして帰って行き、金助にはさっぱり要領の得ぬことだった。ただ、薄地某の友人の軽部村彦という男が品行方正で、大変評判の良い、血統の正しい男であるということだけが朧気にわかった。
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三日経つと、当の軽部がやって来た。季節外れの扇子などを持っていた。ポマードでぴったりつけた頭髪を二三本指の先で揉みながら、
「実はお宅の何を小生の……」妻にいただきたいと申し出でた。金助がお君に、お前は、と訊くと、お君は恐らく物心ついてから口癖であるらしく、
「私でっか。私は如何でもよろしおま」表情一つ動かさず、強いて言うならば、綺麗な眼の玉をくるりくるり廻していた。
あくる日、金助が軽部を訪れて、
「ひとり娘のことでっさかい。養子ちゅうことにして貰いましたら……」
都合が良いとは言わせず、軽部は、
「それは困ります」と、まるで金助は叱られに行ったみたいだった。
やがて、軽部は小宮町に小さな家を借りてお君を迎えたが、この若い嫁に「大体に於て満足している」と、同僚たちに言いふらした。お君は白い綺麗なからだをしていた。なお、働き者で、夜が明けるともうぱたぱたと働いていた。
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――ここは地獄の三丁目、行きは良い良い帰りは怖い。と朝っぱらから唄うたが、間もなく軽部にその卑俗性を理由に禁止された。
「浄瑠璃みたいな文学的要素がちょっともあれへん」と言いきかせた。かつて彼は国漢文中等教員検定試験を受けて、落第したことがあった。それで、お君は、
――あはれ逢瀬の首尾あらば、それを二人が最期日と、名残りの文のいひかはし、毎夜毎夜の死覚悟、魂抜けてとぼとぼうかうか身をこがす……。と、「紙治」のサワリなどをうたった。下手糞でもあったので、軽部は何か言い掛けたが、しかし満足することにした。
ある日、軽部の留守中、日本橋の家で聞いて来たんですがと、若い男が顔を出した。
「まあ、田中の新ちゃんやないの、どないしてたの?」
もと近所に住んでいた古着屋の息子の田中新太郎で、朝鮮の聯隊に入営していたが、除隊になって昨日帰って来たところだという。何はともあれと、上るなり、
「嫁はんになったそうやな。なんで自分に黙って嫁入りしたんや」と、田中新太郎は詰問した。かつて唇を三回盗まれたことがあり、体のことがなかったのは単に機会だったと今更口惜しがっている彼の肚の中などわからぬお君は、そんな詰問は腑に落ちかねた。が、さすがに日焼けした顔に泛んでいるしょんぼりした表情を見ては、哀れを催した。天婦羅丼をとったりして、もてなしたが、彼はこんなものが食えるかと、お君の変心を怒りながら、帰ってしまった。その事を夕飯のときに軽部に話した。軽部は新聞を膝の上に拡げたままふんふんと聴いていたが、話が唇のことに触れると、いきなり、新聞がばさりと音を立て、続いて、箸、茶碗、そしてお君の頬がぴしゃりと鳴った。お君はきょとんとした顔で暫く軽部の顔を見ていたがにわかに泣声を出した。すると、大きな涙がぽたぽたと畳の上に落ちた。泣声をあとに、軽部は憂鬱な散歩に出掛けた。出しなに、ちらりと眼に入れた肩の線がそんな話のあとでは一層悩ましく、ものの三十分もしない内に帰って来ると、お君の姿が見えぬ。火鉢の側に腰を浮かせて、半時間ばかりうずくまっていると、
――魂抜けて、とぼとぼうかうか……、
声がきこえ、湯上りの匂いをぷんぷんさせて、帰って来た。その顔を一つ撲って置いてから、軽部は、
「女いうもんはな、結婚まえには神聖な体でおらんといかんのやぞ。キッスだけのことにしろやね、……」
言い掛けて、いつかの苦い想出がふっと頭に来た。何か矛盾めくことを言うようだったから、簡単な訓戒に止めることにした。軽部はお君と結婚したことを後悔した。しかし、お君が翌年の三月、男の子を産むと、日を繰ってみてひやっとし、結婚して置いて良かったと思った。生れた子は豹一と名付けられた。日本が勝ち、ロシヤが負けたという意味の唄が未だ大阪を風靡していたときのことだった。その年、軽部は五円昇給した。
同じ年の暮、二ツ井戸の玉突屋日本橋クラブの二階広間で広沢八助連中素人浄瑠璃大会が開かれ、聴衆約百名、随分盛会だった。
軽部村彦こと軽部八寿はそのときはじめて高座に上った。はじめてのことだからと露払いを買って出で、ぱらりぱらりと集りかけた聴衆の前で簾を下したまま語ったが、それでも、沢正オ! と声が掛ったほどの熱演だった。熱演賞として湯呑一個貰った。露払いを済ませ、あと汗びしょのまま会の接待役としてこまめに立ち働いたのが悪かったのか、翌日から風邪をひいて寝込んだ。こじれて急性肺炎になった。かなり良い医者に診てもらったのだが、ぽくりと軽部は死んだ。涙というものは何とよく出るものかと不思議なほど、お君はさめざめと泣き、夫婦はこれでなくては値打がないと、ひとびとはその泣き振りに見とれた。
しかし、二七日の夜、追悼浄瑠璃大会が校長の肝いりで同じく日本橋クラブの二階でひらかれると、お君は赤ん坊を連れて姿を見せ、どっさりの校長が語った「紙治」のサワリで、パチパチと音高く拍手した。
手を顔の上にあげ、人眼につきひとびとは眉をひそめた。軽部の同僚たちは、何か腹の中でお互いの妻の顔を想い泛べて、随分頼りない気持を顔に見せた。校長はお君の拍手に満悦したようだった。
三七日の夜、あらたまって親族会議があった。四国の田舎から来た軽部の父が、お君の身の振り方に就て、お君の籍は金助のところに戻し、豹一も金助の養子にしてもろたらどんなもんじゃけんと、渋い顔をして意見を述べ、お君の意嚮を訊くと、
「私でっか。私は如何でもよろしおま」
金助は一言も意見らしい口をきかなかった。
いよいよ実家に戻ることになり、お君が豹一を連れて日本橋の裏長屋へ帰ってみると、家の中は呆れるほど汚かった。障子の桟にはべたッと埃がへばりつき、天井には蜘蛛の巣がいくつも、押入れには汚れ物が一杯あった。お君が嫁いだ後、金助は手伝い婆さんを雇って家の中を任せていたが、よりによって婆さんは腰が曲り、耳も遠かったのだ。
「此のたびはえらい御不幸な……」と挨拶した婆さんに抱いていた子供を預けると、お君は一張羅の小浜縮緬の羽織も脱がず、ぱたぱたとそこら中はたきはじめた。
三日経つと、家の中は見違えるほど綺麗になった。婆さんは、実は田舎の息子がと自分から口実を作って暇をとらざるを得なかった。そして、
――ここは地獄の三丁目、の唄が朝夕きかれた。よく働いた。そんなお君の帰って来たことを金助は喜んだが、この父は亀のように無口であった。軽部の死に就てもついぞ一言も纒まった慰めをしなかった。
古着屋の田中新太郎は既に若い嫁をもらっており、金助の抱いて行った子供を迎えに、お君が銭湯の脱衣場へ姿を見せると、その嫁も最近生れた赤ん坊を迎えに来ていて、仲善しになった。雀斑だらけの鼻の低いその嫁と見比べてみると、お君の美貌は改めて男湯で問題になるのだった。露骨に俺の嫁になれと持ち掛けるものもあったが、お君はくるりくるり綺麗な眼の玉をまわして、笑っていた。金助の所へ話をもって行くものもあった。その都度金助がお君の意見を訊くと、例によって、
「私は如何でも……」
良いが、俺は嫌だと、こんどは金助は話を有耶無耶に断ってしまった。
夏、寝苦しい夜、軽部の乱暴な愛撫が瞼に重くちらついた。見習弟子はもう二十一歳になっていて白い乳房を子供にふくませて転寝しているお君を見ては、固唾をのみ、空しく胸を燃していた。
歳月が流れた。
二
五年経ち、お君が二十四、子供が六つの年の暮、金助は不慮の災難であっけなく死んでしまった。
その日、大阪は十一月末というに珍らしくちらちら粉雪が舞うていた。孫の成長と共にすっかり老い込み、耄碌していた金助が、お君に五十銭貰い、孫の手をひっぱって千日前の楽天地へ都築文男一派の連鎖劇を見に行った帰り、日本橋一丁目の交叉点で恵美須町行きの電車にひかれたのだった。救助網に撥ね飛ばされて危うく助かった豹一が、誰かにもらったキャラメルを手にもち、ひとびとに取りかこまれて、わあわあ泣いているところを見た近所の若い者が、「あッ、あれは毛利のちんぴらや」と自転車を走らせて急を知らせてくれ、お君が駈けつけると、黄昏の雪空にもう電燈をつけた電車が何台も立往生し、車体の下に金助のからだが丸く転っていた。ぎゃッと声を出したが、不思議に涙は出ず、豹一がキャラメルのべとべとひっついた手でしがみついて来たとき、はじめて咽喉の中が熱くなった。そして何も見えなくなった。やがて、活気づいた電車の音がした。
その夜、近所の質屋の主人が大きな風呂敷包をもってやって来、おくやみを述べたあと、
「実は先達お君はんの嫁入りのときでしてん。支度の費用や言うてからに、金助はんにお金を御融通しましたのや。そのときの品が、利子もはいってまへんので、もう流れてまんネやけど、なんやこうお君はんとこでは大切な品や思いまんので、相談によって何せんこともおまへん、と、こない思いましてな。何れ電車会社の……」慰藉金を少くとも千円と見込んで、これでんねんと出したのを見ると、系図一巻と太刀一振だった。ある戦国時代の城主の血をかすかに引いている金助の立派な家柄が、それでわかるのだったが、お君にははじめて見る品だった。金助から左様な家柄に就てついぞ一言もきかされたこともなく、むろん軽部も知らず、軽部がそれを知らずに死んだのは、彼の不幸の一つだった。お君に知らさなかった金助も金助だが、お君もまたお君で、
「折角でっけど、そんなもん私には要用おまへん」と、質屋の申出を断り、その後家柄のことも忘れてしまった。利子の期限云々とむろん慾に掛って執拗にすすめられたが、お君は、ただ気の毒そうに、
「私にはどうでも良えことだっさかい。それになんだんねん……」電車会社の慰藉金はなぜか百円そこそこの零細な金一封で、その大半は暇をとることになった見習弟子に呉れてやる肚だった。そんなお君に山口の田舎から来た親戚の者は呆れかえって、葬式、骨揚げと二日の務めを済ませるとさっさとひきあげてしまい、家の中ががらんとしてしまった夜、ふと眼をさまして、
「誰?」と、暗闇に声を掛けたが、答えず、思わぬ大金をもらって気が変になったのか、こともあろうにそれは見習弟子だと、やがて判った。しかし、あくる日になると、見習弟子は不思議なくらいしょげ返ってお君の視線を避けて、男らしくなく、むしろ哀れだったが、夕方国元から兄と称する男が引取りに来ると彼はほッとしたようだった。永々厄介な小僧を世話でしたのうと兄が挨拶したあと、ぺこんと頭を下げ、
「ほんの心じゃけ、受けてつかわさい」と、白い紙包を差し出して、何ごともなかった顔で、こそこそ出て行った。見ると、写本の字体で、ごぶつぜんとあり、お君が呉れてやったお金がそっくりそのままはいっていた。国へ帰って百姓すると言った彼の貧弱な体やおどおどした態度を憐み、お君はひとけのなくなった家の中の空虚さに暫くぽかんと坐ったままだったが、やがて、
――船に積んだアら、どこまで行きやアる、木津や難波アの橋のしイたア……
思い出したように哀調を帯びた子守唄を高い声で豹一に聴かせた。
お君は上塩町地蔵路地の裏長屋に家賃五円の平屋を見つけて、そこに移ると、早速、「おはり教えます」と、小さな木札を軒先に吊した。長屋の者には判読しがたい変った書体で、それは父親譲り、裁縫は絹物、久留米物など上手とはいえなかったが、これは母親譲り、月謝五十銭の界隈の娘たち相手にはどうにか間に合い、むろん近所の仕立物も引き受けた。
慌しい年の暮、頼まれた正月着の仕立に追われて、夜を徹する日が続いたが、ある夜更け、豹一がふと眼をさますと、スウスウと水洟をすする音がきこえ、お君は赤い手で火鉢の炭火を掘りおこしていた。戸外では霜の色が薄れて行き、……そんな母親の姿に豹一は幼心にもふと憐みを感じたが、お君は子供の年に似合わぬ同情や感傷など与り知らぬ母だった。
「お君さんは運が悪うおますな」と、長屋の者が慰めに掛っても、
「仕方おまへん」と、笑って見せた。軽部の死、金助の死と相つづく不幸もどこ吹いた風かといった顔だったから、愚痴の一つも聞いてやり、貰い泣きもさして貰いまひょと期待した長屋の女たちは、何か物足らなかった。
大阪の路地にはたいてい石地蔵が祀られていて、毎年八月の末に地蔵盆の年中行事が行われたが、お君の住んでいる地蔵路地は名前からして、他所の行事に負けられなかった。戸毎に絵行燈をかかげ、狭苦しい路地の中で、近所の男や女が、
――トテテラチンチン、トテテラチン、チンテンホイトコ、イトハトコ、ヨヨイトサッサ、……と踊った。お君は無理して西瓜二十個寄進し、薦められて踊りの仲間にはいった。お君が踊りに加わったため、夜二時までとの警察のお達しが明け方まで忘れられた。
相変らず、銭湯で水を浴びた。肌は娘の頃の艶を増していた。ぬか袋を使うのかと訊かれた。水を浴びてすくっと立っている、眼の覚めるような鮮かな肢態に固唾をのむような嫉妬を感じていた長屋の女が、あるときお君の頸筋を見て、
「まあ、お君さんたら、頸筋に生ぶ毛が一杯……」生えているのに気が付いたのを倖い、大袈裟に言うので、銭湯の帰り、散髪屋へ立ち寄ってあたって貰った。剃刀が冷やりと顔に触れた途端、どきッと戦慄を感じたが、やがてさくさくと皮膚の上を走って行く快い感触に、思わず体が堅くなり、石鹸と化粧料の匂いのしみ込んだ手が顔の筋肉をつまみあげるたびに、体が空を飛び、軽部を想い出した。
そのようなお君に、そこの職人の村田は商売だからという顔をときどき鏡にたしかめて見なければならなかった。しかし、その後月に二回は必ずやって来るお君に、村田は平気で居れず、ある夜、新聞紙に包んだセルの反物を持って路地へやって来て、
「思い切って一張羅イを張りこみましてん。済んまへんが一つ……」縫うてくれと頼むと、そのままぎこちない世間話をしながらいつまでも坐り込み、お君を口説く機会は今だ今だと心に叫んでいたが、そんな彼の肚を知ってか知らずにか、お君は、長願寺の和尚さんももう六十一の本卦ですなというつまらぬ話にも、くるりくるりと眼玉をまわして、げらげら笑っていた。
豹一は側に寝そべっていたが、いきなり、つと起き上ると、きちんと両手を膝の上に並べて、村田の顔を瞶め、何か年齢を超えて挑みかかって来る眼付きだと、村田は怖れ見た。やがて村田は自分の内気を嘲りながら、帰って行った。路地の入口で放尿した。その音を聞きながら、豹一は不安な顔でごろりと横になった。
三
豹一は早生れだから、七つで尋常一年生になった。始業式の日にもう泣いて帰ったから、お君は日頃の豹一のはにかみ屋を思い出し、この先が案じられると、訊けば、同級の男の子を三人も撲ったので教師に叱られた、ということだった。
学校での休暇時間には好んで女の子と遊んだ。少女のような体つきで、顔も色白くこぢんまり整っていたから、女教師たちがいきなり抱きしめに来た。豹一は赧い顔で逃げ、二、三日はその教師の顔をよう見なかった。身なりのみすぼらしさを恥じていたのである。一つには、可愛がられるということが身につかぬ感じで、皮膚はもう自分から世間の風に寒く当っていた。
一週間に五人ぐらい、同級の男の子が彼に撲られて泣いた。子供にしては余り笑わなかった。泣けば、自分の泣き声に聴き惚れているかのような泣き方をした。泣き声の大きさは界隈の評判だと、自分でも知っていた。ある時、何に腹立ってか、路地の井戸端にある地蔵に小便をひっ掛けた。見ている人があったので、一層ゆっくりと小便をした。お君は気の向いた時に叱った。
八つの時、学校から帰ると、いきなり仕立おろしの久留米の綿入を着せられた。筒っぽの袖に鼻をつけると、紺の匂いがぷんぷん鼻の穴にはいって来て、気取り屋の豹一には嬉しい晴着だったが、流石に有頂天にはなれなかった。お君はいつになく厚化粧し、その顔を子供心に美しいと見たが、何故かうなずけなかった。仕付糸をとってやりながら、
「向う様へ行ったら行儀ようするんやぜ」
お君は常の口調だったが、豹一は何か叱られていると聴いた。
路地の入口に人力車が三台来て並ぶと、母の顔は瞬間面のようになり、子供の分別ながらそれを二十六の花嫁の顔と見て、取りつく島もないしょんぼりした気持になった。火の気を消してしまった火鉢の上に手をかざし、張子の虎のように抜衣紋した白い首をぬっと突き出し、じじむさい恰好で坐っているところを、豹一は立たされ、人力車に乗せられた。見知らぬ人が前の車に、母はその次に、豹一はいちばん後の車。一人前に車の上にちょこんと収っている姿をひねてると思ったか、車夫は、
「坊ん坊ん。落ちんようにしっかり掴まってなはれや」
その声にお君はちらりと振り向いた。もう日が暮れていた。
「落てへんわいな」と豹一はわざとふざけた声で言い、それが夕闇のなかに消えて行くのをしんみり聴いていた。ふわりと体が浮いて、人力車は走り出した。だんだん暗さが増した。ひっそりとした寺がいくつも並んだ寺町を通るとき、木犀の匂いが光った。豹一は眩暈がし、一つにはもう人力車に酔うていたのだった。それが恥しく情けなかった。梶棒の先につけた提灯の火が車夫の手の動脈を太く浮び上らせていた。尋常二年の眼で提灯に書かれた「野瀬」の二字を判読しようとしていたが、頭の血がすうすう引いて行くような胸苦しさで、困難だった。その夜、一人で寝た。
蒲団についたナフタリンの匂いが何か勝手が違って、母親のいない淋しさをしみじみ感じさせた。泣けもしなかった。小さな眼で意味もなく天井を睨んでいた。母は階下で見知らぬ人といた。野瀬安二郎だと、あとで判った。
野瀬安二郎は谷町九丁目いちばんの金持と言われ、慾張りとも言われた。高利貸をして、女房を三度かえ、お君は四番目の女房だった。ことし四十八歳の安二郎がお君を見染めて、縁談を取りきめるまでには、大した手間は掛らなかった。
「私でっか。私は如何でもよろしおま」
しかし、流石にお君は、豹一が小学校を卒業したら中学校へやらせてくれと条件をつけた。これは吝嗇漢の安二郎にはちくちく胸痛む条件だったが、けれどもお君の肩は余りにも柔かそうにむっちり肉づいていた。
安二郎には子供がなく、さきの女房を死なせると、直ぐ女中を雇って炊事をやらせるほか、女房の代りも時にはさせていたが、お君が来ると、途端に女中を追い出し、こんどはお君が女中の代りとなった。
「人間は節約せんことには、あかんネやぜ、よう聴いときや」と口癖して、一銭のお金もお君の自由に任せず、毎日の市場行きには十銭、二十銭と端金を渡し、帰ると、釣銭を出させた。ときには自分で市場へ行き、安鰯を六匹ほど買うて来て、自分は四匹、あとはお君と豹一に一匹ずつ与えた。いつか集金に行って乱暴をされたことがあって以来、山谷という四十男を雇って集金に廻らせていたが、むろん山谷は手弁当で、安二郎のところで昼食すら出すことはなかった。山谷は破戒僧面をして、ひとり身だった。ある日、豹一に淫らな表情で、お君と安二郎のことに就て、きくにたえぬ話を言って聞かせた。
「如何してん? 坊ん坊ん」山谷が驚いて豹一の顔を見ると、怖いほど蒼白み、唇に血がにじみ、前歯も少し赤かった。眼がぎらぎら光って、涙をためていた。
誇張して言えば、その時豹一の自尊心は傷ついた。人一倍傷つき易かった。なお、しょんぼりした。辱かしめられたと思い、性的なものへの嫌悪もこのとき種を植えつけられた。持前の敵愾心は自尊心の傷から膿んだ。横眼を使うことが堂に入り、安二郎を見る眼つきが変った。安二郎の背中で拳骨を振り廻した。母は毎晩安二郎の肩をいそいそ揉んだ。
豹一は一里以上もある築港まで歩いて行き、黄昏れる大阪湾を眺めて、夕陽を浴びて港を出て行く汽船にふと郷愁を感じたり、訳もなく海に毒づいたりした。
ある日、港の桟橋で、ヒーヒー泣き声を出したい気持をこらえて、その代り海に向って、
「馬鹿野郎」と、呶鳴った。誰もいないと思ったのが、釣をしていた男がいきなり振り向いて、
「こら、何ぬかす」そして白眼をむいている表情が生意気だと撲られた。泣きながら一里半の道を歩いて帰った。とぼとぼ来て夕凪橋の上でとっぷり日が暮れ、小走りに行くと、電燈をつけた電車が物凄い音で追い駈けて来て、怖かった。
家へはいると、安二郎は風呂銭を節約しての行水で、お君は袂をたかくあげて背中を流していた。それが済むと、お君が行水し、安二郎は男だてらにお君の背中を流した。そのあと、豹一のはいる番だったが、狸寝入して、呼ばれても起きなかった。
だんだん憂鬱な少年となり、やがて小学校を卒業した。改めてお君が中学校へ入れてくれるように安二郎に頼んだが、
「わいは知らんぜ」安二郎はとぼけて見せた。軽部が中学校の教員になりたがっていたことなども俄かに想い出されて、お君はすっかり体の力が抜けた。安二郎は豹一に算盤を教え、いずれ奉公に出すか高利の勘定や集金に使う肚らしかった。
夜寝しな、豹一の優等免状を膝の上に拡げていつまでも見、安二郎が言ってもなかなか寝なかった。やがて物も言わずに突き膝で箪笥の方へにじり寄り、それを蔵いこむ、その腰のあたりを見ると、安二郎はおかしいほど狼狽した。お君が箪笥から自分のものを取り出して、そのまま暇を取ってしまうかと、思い込んだのである。渋々承知した。
やがて豹一は中学校へはいったが、しかし、安二郎は懐を傷めなかった。お君はどこからか仕立物を引き受けて来て、その駄賃で豹一の学資を賄った。賃仕事だけでは追っ付かず、自分の頭のものや着物を質に入れたり、近所の人に一円、二円と小金を借りたりした。高利貸の御寮はんが他人に金を借りるのはおかしいやおまへんかと言われた。が、実は入学の時の纒った金は安二郎に借り、むろん安二郎はお君から利子をとる肚でいた。仕立物に追われて、お君の眼のふちはだんだん黝んで来た。
第二章
一
中学生の豹一は自分には許嫁があるのだと言い触らした。そのためかえって馬鹿にされていると気が付く迄、相当時間が掛った。その間、自分に箔をつけたつもりで、芸もなくやに下っていたのである。
彼は絶えず誰かに嘲笑されるだろうという恐怖を疥癬のように皮膚に繁殖させていた。必要以上に肩身の狭い思いを、きょろきょろ身辺を見廻す眼の先にぶら下げていたのである。少年らしい虚栄心で、だから彼には人一倍箔をつける必要があった。おまけに入学試験の時、彼の自尊心にとっては致命傷とも言う失敗があったのだ。
入学試験は自分の運命を試すようなものだと、彼は子供心にも異様な興奮を感じながら試験場へはいっていた。ところが余り興奮したので、ふと尿意を催した。未だ答案は全部出来ていなかった。出るわけにはいかなかった。その旨監督の教師に言って、途中で便所へ行かせて貰うことも考えたが、実行しかねた。人とは違って自分にはそんなことを要求出来ない子供だと、日頃から何か諦めていたのである。どうにも我慢が出来ず、書きかけの答案を提出して、試験場を出てしまおうか。しかし、そうすれば、落第だ。彼は下腹を押えたままじっとこらえていた。そわそわして問題の意味もろくに頭にはいらなかった。こんなことでは駄目だと、頭を敲きながら、答案用紙にしがみついていると、ふと下腹から注意が外れた。いきなり怖いような快意に身を委ねて、ええ、もうどうでもなれ。坐尿してしまった。あと周章てて答案を書き、机の上へ裏がえしに重ねて、そわそわと出て行く拍子に、答案用紙が下へ落ちた。濡れたのである。
試験中三時間も子供たちを閉じこめて置くので、こんなことは屡※(二の字点、1-2-22)あることだから、監督の教師は無表情な顔で坐尿の場所へ来た。教師は黙って拾い上げた。机の上へ置いて、また教壇の方へ戻って行った。しかし、豹一は、教師は俺の顔と答案用紙の番号を見較べた、と思った。途端に落第だと諦めた。
ところが運良く合格した。つまり難なく中学生になったのである。すると、改めて坐尿のことが苦しくなって来た。入学式の時、誰かあのことを知っているだろうかと、うかがう眼付きになった。試験の時だったからお互いに未だ顔を見知っていなかったが、一人二人素早く見覚えていた奴はあるに違いないと思った。その時の監督の教師は国語を担当していて、豹一の教室へも一週間に四度やって来た。そのたびに、豹一は身を縮めて、ばらされやしないかと冷やひやしていたのである。
もう一つ、こんなことがあった。同級生間で、誰がどんな家に住んでいるか見届けようと、放課後探偵気取りで尾行することが流行した。ある日、豹一にも順番が廻って来た。家の構えはともかく、高利貸の商売をしているのを知られるのがいやで、尾行られたと気付くと、蒼くなって曲り角からどんどん逃げた。家へ駈け込むとき、軒先へ傘を置き忘れた。果して、
「毛利君! 毛利君! 出て来い」表で呶鳴る声が聴えた。豹一は二階で犯人のように小さく息をこらしていた。顔を両手の中に埋め、眼を閉じていた。表札が「野瀬」となっていることも辛かった。
そんなことがあって見れば、箔をつける必要も充分あった。しかし、よりによって許嫁があるなどと言い触らしたのはなんとしたことか。許嫁があると言い触らすことによって、家庭的に恵まれている風に見せたかったのだが、未だ一年生の同級生を相手では、効果はなかった。許嫁を羨しがる早熟な者もいなかったのである。やがて、だんだんに馬鹿にされていると気がつくと、もう首席にでもなるよりほかに、自尊心の保ちようがないと思った。
豹一は顔色が変る位勉強した。自分の学資をこしらえる為に夜おそく迄針仕事をしている母親のことを考えれば、いくら勉強しても足りない気持だった。試験前になると、お君は寝巻のままでお茶と菓子を盆にのせて机の傍へ持って来てくれた。そんな風にされるのが豹一には身に余って嬉しいのである。たとえそれが母親にしろ、夜おそく人にお茶を沸かして貰えようとは夢にも希んでいなかったのだ。階下から聴える安二郎の乱暴な鼾もなぜか勉強に拍車を掛けるのに役立った。もう寝ようと、ふと窓の外を見ると、東の空が紫色に薄れて行き、軒には氷柱が掛り、屋根には霜が降りていた。さすがにしんみりとした気持になるのだった。
二年に進級する時、成績が発表された。首席になっていた。豹一はかなり幸福な気持になった。しかし、全く幸福だと言っては言い過ぎだった。何かの間違いだろうという心配があったからである。からかわれているのではないかと、身体を見廻す眼付になるのだった。自分の頭脳にはひどく自信がなかったからである。クラスの者は少くとも彼の暗記力の良さだけは認め、怖れを成していたのだが、豹一には人から敬服されるなど与り知らぬことだった。まして首席という位置は、日頃諦めている運命には似つかわしくなかったのである。
だから、自分でも屡※(二の字点、1-2-22)首席だという事実を顧る必要があった。言い触らした。いつか「首席」が渾名になってしまった。いわば首席の貫禄がなかったのである。ふと、母親のことや坐尿のことを想い出すと、
「こんどめは誰が二番になるやろな」クラスの者を掴えて言うのだった。
これは随分鼻についた。クラスの者はうんざりし、豹一がそんな風に首席に箔をつけたがるので、いつかそれをメッキだと思い込んだ。
「あいつはたかが点取虫だ」
一学期の試験の前日、豹一は新世界の第一朝日劇場へ出掛けた。マキノ輝子の映画を見、試験場へそのプログラムの紙を持って来て見せた。
そのことが知れて豹一は一週間の停学処分を受けた。一週間経って、教室へ行くと、受持の教師が来て、出席点呼が済むなり、
「此の級は今まで学校中の模範クラスだったが、たった一人クラスを乱す奴がいるので、一ぺんに評判が下ってしまった。残念なことだ」とこんな意味のことを言った。自分のことを言われたのだと豹一はポンと頭を敲いて、舌を出し、首を縮めた。しかも誰も笑いもしなかった。それどころか、そんな豹一の仕草をとがめるような視線がいくつかじろりと来た。豹一はすっかり当が外れてしまった。
やっと休憩時間になると、豹一はキャラメルをやけにしゃぶっていた。普通、級長のせぬことである。案の定、沼井という生徒が傍へ来て、
「君一人のためにクラス全体が悪くなる」とわざと標準語で言った。豹一は、
「そら、いま教師の言ったことや。君に聴かせてもらわんでもええ。それに心配せんでもええ。君みたいな模範生がいたら、めったにクラスは悪ならん」
沼井はぞろぞろとクラスの者が集って来たのに力を得たのか、
「教室でものを食べるのは悪いことだよ、君」と言った。またしても標準語だった。
「だから君は食べないやろ? それでええやないか。俺が食べるのはこら勝手や」そう言うと、いきなり沼井の手が豹一の腕を掴んだ。
「口のものを吐き出せ。郷に入れば郷に従えということがある」
いつかクラスの者に取り囲まれていた。が、その時ベルが鳴った。豹一は授業中もキャラメルをしゃぶっていた。
三日経った放課後、沼井を中心に二十人ばかりの者にとりかこまれて、鉄拳制裁をされた。豹一は二十分程奮闘したが、結局無暴だった。鼻を警戒していたが、いつの間にか猛烈に鼻血を吹き出し、そして白い眼をむいた。それから間もなく、二学期の試験がはじまった。泡喰って問題用紙に獅噛みついているクラスの者の顔をなんと浅ましいと見た途端、いきなり敵愾心が頭をもたげて来て、ぐっと胸を突きあげた。沼井の方を見ると、沼井もしきりに鉛筆の芯をけずっているのだ。沼井は点取虫だということになっていた。
(ところが俺も点取虫と言われたことがある。沼井と同じ様に思われてたまるものか)
豹一は書きかけの答案を周章てて消した。そして、つかつかと教壇の下まで行って、提出した。余り豹一の出し方が早いので、皆はあっ気にとられて、豹一の顔を見上げた。
「なんやこれ?」監督の教師は外していた眼鏡を掛けて覗き込んだ。
「白紙です」そして、わざと後も向かず、ざまあ見ろと胸を張って、教室を出た。はじめてほのぼのとした自尊心の満足があった。しかしその満足がもっと完全になるまで、もう三月掛った。翌年の三月、白紙の答案を補うに充分なほどの成績を取って進級するところを見せる必要があったのである。その三月は永かった。それだけに進級した時の喜びはじっと自分ひとりの胸に秘めて置けぬほどだった。気候も良かった。桜の花も咲き初めて、生温い風が吹くのである。豹一はまるで口笛でも鳴らしたい気持で、白紙の答案を想い出した。クラスの者は当分の間彼の声をきいてもぞっとした。なかには落第した者もいるのである。
そんな風だから豹一はもう完全にクラスの者から憎まれてしまった。しかし、彼の敵愾心は最初から彼等を敵と決めていたから、憎まれてかえってサバサバと落ち着いた。美貌に眼をつけた上級生が無気味な媚で近寄って来ると、かえってその愛情に報いる術を知らぬ奇妙な困惑に陥るのだった。
三年生の終り頃、ローマ字を書いた名を二つ並べ、同じ字を消して行くという恋占いが流行った。教室の黒板が盛んに利用され皆が公然に占っているのを、除け者の豹一はつまらなく見ていたが、ふと誰もが一度は水原紀代子という名を書いているのに気がついた途端、眼が異様に光った。豹一は最も成績の悪い男を掴え、相手にはまるで何を訊こうとしているのかわからぬ廻りくどい調子で半時間も喋り立てた挙句、水原紀代子に関する二、三の知識を得た。大軌電車沿線S女学校生徒だと知ったので、その日の午後、授業をサボって周章てて上本町六丁目の大軌構内へ駈けつけた。が、余り早く行き過ぎたので、緑色のネクタイをしめたS女学校の生徒が改札口からぞろぞろ出て来るまで、二時間待った。そして、やっと紀代子の姿を見つけることが出来た。教えられた臙脂の風呂敷包と、雀斑はあるが、非常に背が高くスマートだという目印でそれと分ったのだが、そんな目印がなくとも、つんと澄まして上を向いている表情は彼女になくてかなわぬものだと、豹一は思った。げらげらと愛想の良い女なら、二時間も待つ甲斐がなかったのである。
(しかし、なにがS女学校第一の美女だ。笑わせるではないか)
けれども、大袈裟に大阪中の中学生の憧れの的だと騒がれている点を勘定に入れて、美人だと思うことにした。一般的見解に従ったまでだが、しかし澄み切った両の眼は冷たく輝いて、近眼であるのにわざと眼鏡を掛けないだけの美しさはあった。そんな事を咄嗟の間に考えていると、紀代子は足早に傍を通り過ぎようとした。豹一は瞬間さっと蒼ざめた。話し掛ける言葉がなぜか出て来ない口惜しさだった。
(この一瞬のために二時間を失うてはならない)
この数学的な思い付きでやっと弾みつけられて、いきなり帽子を取って、
「卒爾ながら伺いますが、あなたは水原紀代子さんですか」
月並でない、勿体振った言い方をと二時間も考えていた末の言葉だったから、紀代子も一寸呆れた。しかし、紀代子にしてみれば、こんな事はたびたびあることだ。大して赧くもならずに、
「はあ」そして、どうせ手紙を渡すならどうぞ早くという眼付きで、豹一を見た。そんな事務的な表情で来られたので、豹一はすっかり狼狽してしまい、考えていた次の言葉を忘れてしまった。いきなり逃げ出して、われながら不様だった。
不良中学生にしてはなんと内気なと、紀代子は嗤って、振り向きもしなかったが、彼の美貌だけは一寸心に止っていた。(誰それさんならミルクホールへ連れて行って三つ五銭の回転焼を御馳走したくなるような少年やわ)ニキビだらけのクラスメートの顔をちらと想い泛べた。(しかし、私は違う)彼女は来年十八歳で卒業すると、いま東京帝国大学の法学部にいる従兄と結婚することになっており、十六の少年など十も下に見える姉さん面が虚栄の一つだった。
それ故、その翌日から三日も続けて、上本町六丁目から小橋西之町への舗道を豹一に尾行られると、半分は五月蠅いという気持から、
「何か用ですの」いきなり振り向いて、きめつけてやる気になった。三日間尾行するよりほかに物一つ言えなかった弱気を苦しんでいた豹一の自尊心は、紀代子からそんな態度に出られたために、本来の面目を取り戻した。
「あんたなんかに用はありませんよ。己惚れなさんな。ただ歩いているだけです」
すらすらと言葉が出た。その言葉が紀代子の自尊心をかなり傷つけた。
「不良中学生! うろうろしないで、早くお帰り」
「勝手なお世話です」
「子供の癖に……」と言い掛けたが、巧い言葉も出ないので、紀代子は、
「教護聯盟に言いますよ」
近頃校外の中等学生を取締るために大阪府庁内に設けられた怖い機関を持ち出して、悪趣味だった。
「言いなさい。何なら此処へ呼びましょうか」そう言う不逞な言葉になると、豹一の独壇場だった。
「強情ね、あんたは。一体何の用なの」
「用はない言うてまっしゃろ。分らん人やな、あんたは……」大阪弁が出たので、少し和かになって来た。紀代子はちらと微笑し、
「用もないのに尾行るのん不良やわ。もう尾行んときね。学校どこ?」大阪弁だった。
「帽子見れば分りまっしゃろ」
「見せて御覧」紀代子はわざと帽子に手を触れた。それくらい傍に寄ると、豹一の睫毛の長さがはっきり分るからだった。
「K中ね。あんたとこの校長さん知ってんのよ」
「言いつけたら宜しいがな」
「言いつけるわよ。本当に知ってんねんし。柴田さん言う人でしょ?」
「スッポンいう綽名や」
いつの間にか並んで歩き出していた。家の近くまで来ると、紀代子は、
「さいなら。今度尾行たら承知せえへんし」
そして、別れた。
その間、豹一は、(成功だろうか、失敗だろうか?)とその事ばかり考えていた。結局別れ際に、「承知せえへんし」と命令的な調子でたたきつけられて、返す言葉もなく別れてしまった事から判断して、完全な失敗だと思った。しかし、失敗ほど此の少年を奮起せしむるものはないのである。
翌日は非常な意気込で紀代子の帰りを待ち伏せた。紀代子は豹一の姿を見ると、瞬間いやな気持になった。昨日はちょっと豹一に好感を持ったのだが、こうして今日もまた待ち伏せられてみると、此の少年も矢張りありきたりの不良学生かと思われたのである。
紀代子は素知らぬ顔で豹一の傍を通り過ぎた。豹一は駈寄って来て、真赧な顔で帽子を取ってお辞儀をした。すると、紀代子は、
(今日こそ此の少年を思う存分やっつけてやろう。昨日は失敗したが……)
こんな事を自分への口実にして、並んで歩いてやることにした。実は豹一の真赧な顔が可愛かったのである。ところが、豹一はまるで一人で歩いているみたいに、どんどん大股で歩くのだった。真赧になった自分に腹を立てていたのである。紀代子は並んで歩くにも、歩きようがなかった。
「もう少しゆっくり歩かれへんの?」われにもあらず、紀代子は哀願的になった。
「あんたが早よ歩いたらよろしいねん」
(こいつは上出来の文句だ)と豹一は微笑んだ。紀代子はむっとして、
「あんた女の子と歩く術も知れへんのやなあ。武骨者だわ」嘲笑的に言うと、豹一は再び赧くなった。女の子と歩くのに馴れている振りを存分に装っていた筈なのである。
(此の少年は私の反撥心が憎悪に進む一歩手前で食い止めるために、しばしば可愛い花火を打ち揚げる)文学趣味のある紀代子はこう思った。なお、(此の少年は私を愛している)と己惚れた。それを此の少年の口から告白させるのは面白いと思ったので、紀代子は、
「あんた私が好きやろ」
豹一はすっかり狼狽した。こんな質問に答えるべき言葉を用意していなかったのである。また彼は小説本など余り読まなかったから、こんな場合何と答えるべきか、参考にすべきものがなかった。無論、「はい好きです」とは言えなかった。第一、彼は少しも紀代子を好いていないのである。心にもないことを言うのは癪だった。暫く口をもぐもぐさせていたが、やっと、
「嫌いやったら一緒に歩けしまへん」という言葉を考え出して、ほッとした。
「けったいな言い方やなあ。嫌いやのん。それとも好きやの。どっちやの。好きでしょ?」さすがに終りの方は早口だった。豹一は困った。好きでない以上、嫌いだと答えるべきだが、それでは余り打ちこわしだ。
「好きです」小さな声で、「好き」という字をカッコに入れた気持で答えた。紀代子ははじめて、豹一を好きになる気持を自分に許した。
しかし、豹一は「好きです」と言ったために、もう紀代子に会うのが癪だと思っていた。翌日は日曜だったので、もっけの倖いだと思った。紀代子を獲得するまで毎日紀代子に会うべしと、自分に言い聴かせていたのだった。豹一は千日前へ遊びに行った。楽天地の地下室で、八十二歳の高齢で死んだという讃岐国某尼寺のミイラが陳列されていた。「女性の特徴たる乳房その他の痕跡歴然たり。教育の参考資料」という宣伝に惹きつけられて、こそこそ入場料を払ってはいった。ひそかに抱いていた性的なものへの嫌悪に逆に作用された捨鉢な好奇心からだった。
自虐めいたいやな気持で出て来た途端、思い掛けなくぱったり紀代子に出くわした。(変な好奇心からミイラを見て来たのを見抜かれたに違いない)豹一はみるみる赧くなった。近眼の紀代子は豹一らしい姿に気がつくと確めようとして、眼を細め、眉の附根を引き寄せていた。それが眉をひそめていると、豹一には思われた。胃腸の悪い紀代子はかねがね下唇をなめる癖があり、此の時も、おや花火を揚げている、と思ってなめていた。そんな表情を見ると、もう豹一は我慢が出来なかった。いきなり、逃げ出した。
(あんな恥しいところを見られた以上、俺はもう嫌われるに違いない)豹一は簡単にそう決めてしまった。すると、もう紀代子に会う勇気を失うのだった。もう彼は翌日から紀代子を待ち伏せしなかった。
ところが、紀代子は豹一が二、三日顔を見せないと、なんとなく物足りなかった。楽天地の前で豹一が逃げ出した理由も分らぬのである。
「何故逃げたのだろうか?」そのことばかり考えていた。つまり、豹一のことばかり考えるのと同じわけである。(嫌われたのではないだろうか?)己惚れの強い紀代子にはこれがたまらなかった。(あんなに仲良くしていたのに……)
やがて十日も豹一の顔を見ないと、彼女はもはや明らかに豹一を好いている気持を否定しかねた。(なんだ! あんな少年……)
紀代子は豹一を嫌いになるために、随分努力を図った。彼女は毎日許嫁の写真を見た。許嫁は大学の制帽を被り、頼もしく、美丈夫だと言っても良い程の容貌をしていた。彼女はそれを見ると、豹一の影も薄くなるだろうと、毎日眺めていた。が、余り屡※(二の字点、1-2-22)眺め過ぎて、許嫁の顔も鼻に突いて来た。(此の顔はひねている。髭の跡も濃い!)彼女はそんな無理なことを考えた。なるほど豹一はおずおずとうぶ毛を見せた少年なのである。しかし、許嫁から度々手紙が来て、東京の学生生活などを書いた文句を見ると、豹一などとは段違いの頼もしさがあった。
二週間ほど経って、豹一を嫌いになる考えが大体纒り掛けたある日、紀代子は大軌の構内でばったり豹一に出会った。思わずあらと顔を赧くした。彼女は豹一が自分を待っていてくれたと思ったのである。
(やっぱり病気だったのやわ)この考えは一縷の希望として秘めて置いたのだった。彼女は微笑を禁じ得なかった。豹一を嫌いになる考えを咄嗟に捨ててしまった。ところが、豹一は、しまったと、半分逃げ腰だった。実は、彼は紀代子に会うのが怖くて、ずっと大軌の構内を避けていた。学校から帰り途だったが、わざと廻り道をしていた位である。ところが、今日は、うっかりと大軌の構内を通り抜けたのであった。つまり、もう紀代子のことは半分忘れ掛けていたからである。
いきなり逃げ出そうとした。その足へ途端に自尊心が蛇のようにするする頭をあげて来て、からみついた。(ここで逃げてしまっては、俺は一生恥しい想いに悩まされねばならない。名誉を回復しなければならない)豹一は辛くも思い止った。しかし、名誉を回復するのはどういう風にして良いか分らなかった。まさか紀代子を相手に決闘も出来なかった。豹一はただまごまごしていた。そして、そんな決心にもかかわらず、紀代子の顔もろくによう見なかった。横を向いていた。
紀代子は豹一が自分の顔を見てくれないのが、恨めしかった。つと寄り添うて、
「どないしてたの? なんぜ会ってくれなかったの? 病気していたの?」
恨み言を言った。が、豹一は答える術を知らなかった。そして、答える術を知らない自分にむっと腹を立てていた。そんな顔を見ると、紀代子は、やっぱり嫌われたのかと、不安になって来た。それで一層豹一を好いてしまった。例の如く並んで歩いたが、豹一はわれにもあらずぎこちなかった。別れしな、
「今夜六時に天王寺公園で会えへん?」紀代子の方から言い出した。その頃、宵闇せまれば悩みは果てなしという唄が流行していた。約束して別れた。
豹一はわざと約束の時間より半時間遅れて行った。紀代子は着物を着て、公園の正門の前にしょんぼり佇んでいた。臙脂色の着物に緑色の兵児帯をしめ、頬紅をさしていた。それが、子供めいても、また色っぽく見えた。
「一時間も待ってたんやわ」と紀代子は半泣きのまま、寄り添うて来た。
並んで歩いた。夜がするすると落ちて、瓦斯燈の蒼白い光の中へ沈んで消えていた。美術館の建物が小高い丘の上に黒く聳えていた。グランドではランニングシャツを着た男がほの暗い電燈の光を浴びて、影絵のように走っていた。藤棚の下を通る時、植物の匂いがした。紀代子は胸をふくらました。時々肩が擦れた。豹一にはそれが飛び上るような痛い感触だった。
(女と夜の公園を散歩するなんて、いやなことだ)
彼はこの感想をニキビの同級生に伝えてやろうと思った。紀代子にそれと分る位露骨に、つと離れて歩いた。そんな豹一が紀代子には好ましかった。(此の少年は恥しがりで、神経質だわ)しみじみと見上げると、豹一の子供じみた顔の中で一個所だけ、子供離れしたところがあった。広い額に一筋静脈が蒼白く浮き出しているのだ。それが物想いに悩む少年らしく見えた。(きっと私のことで思い悩んでいるのだわ!)
しかし、その瞬間豹一は、こともあろうに、
(お前の母親はいま高利貸の亭主に女中のようにこき使われているんだぞ! いや、それよりも、もっとひどい事をされているんだぞ)と自分に言い聴かせていた。紀代子は着物を着ると、如何にも良家の娘らしかった。(此の女は俺の母親が俺の学資を作るために、毎晩針仕事をしたり近所の人に金を借りたり、亭主に高利の金を借りたりしていることは知るまい。いや、俺が今日此処へ来る前に漬物と冷飯だけの情けない夕食をしたことは知るまい。無論あとでこっそり母親が玉子焼を呉れたが、これは有難すぎて咽喉へ通らなかった。俺の口はしょっちゅう漬物臭いぞ。今も臭いぞ。それを此の女は知るまい。此の香水の匂いをプンプンさせている女は知るまい。俺の母親は銭湯の髪洗い料を倹約するから、いつもむっと汗くさい髪をしているぞ)
豹一はふっと泪が出そうになった。が、その眼を素早くこすると、また考え続けた。(この女は俺が坐尿したことを知ったら、もう俺と歩きはしまいだろうな)だからこそ、この娘を獲得することは自尊心を満足さすことになるのだと、豹一は漸く紀代子と歩いている自分の役割に気がついた。
(何か喋らなければならない)
豹一は急に周章て出した。が、どんなことを喋って良いか分らなかった。恋愛小説など読んだことがないのである。獲得だと大それたことを考えてみたところで、それがどんな実際の言動を意味しているものかも分らなかったのである。今更のように、われながらぎこちなく黙々としている状態に気がつくと、もう豹一は紀代子と歩いているのが息苦しくなった。何か気の利いたことを言おう、はっきりと自分の目的に適ったことを言おうと思いながら、少しもそんな言葉の泛んで来ない自分にいら立っていた。彼はだんだん気持が重くなって来て、随分つまらぬ顔をしていた。(お前は女と口を利く術を知らないのではないか?)そんな自分が紀代子の眼にどんな風にうつるだろうかと考えて見た。彼はもう少しで紀代子に軽蔑されるだろうという心配を抱くところだった。が、紀代子の頬紅をつけた顔を見て、僅にその心配だけは免れた。紀代子の日頃の勝気そうな顔は頬紅をつけているので、今日はいくらか間が抜けて見えたのである。(俺はなんという不調法な男だろう)豹一は自嘲していたが、この不調法という言葉が気に入って、やや救われた。しかし彼はそんな心配をする必要もなかったのだ。紀代子は口をひらけば必ず傲慢な、憎たらしいことを言う豹一よりも、おずすおずと黙っている豹一の方が好きなのである。一つには、彼女は苦しいほど幸福といっても良い気持をもて余して、豹一に口を利かす余裕も与えないくらい、ひとりで喋り出したからである。
文学趣味のある紀代子は、歯の浮くような言葉ばかり使った。豹一が意味を了解しかねるような言葉や、季節外れの花の名も紀代子の口から飛び出した。もし豹一が紀代子の使う言葉の意味が分らない自分を恥しく思い、俺は何と無学だろうと自分に腹を立てているのでなければ、もう少しで欠伸が出るところだった。
(中学生の俺よりも女学生の紀代子の方がむずかしいことを知っているのは、中学校の教育が悪いからだ)
紀代子がもし聴いたらうんざりするような、そんな無味乾燥なことを考えながら、豹一は退屈をこらえていた。
紀代子の「気の利いた」文学趣味のある言葉は、しかしそう永くは続かなかった。知っている限りの言葉を言い尽してしまったからである。
道が急に明るくなって、いつか公園を抜けて、ラジウム温泉の傍へ来ていた。
毒々しい色の電燈がごたごたとついている新世界の外れだった。
「俗悪やわ。引き返しましょう」
そして彼女自身もひどく散文的な気持になってしまって、紀代子は豹一の友達が彼女に下手な文章の恋文を送った話などをした。すると、急に豹一の眼は輝いた。
「誰とどいつが送ったんや?」と訊いて、その名前を確めると、もう豹一は退屈しなかった。はじめて自尊心が満足された。豹一は恋文を見せて貰われへんやろかと、熱心に頼んだ。紀代子は即座に承知した。
「そんならあした見せたげるわね」
それで翌日の約束が出来てしまった。
二
そんな交際が三月続いた。が、二人の仲は無邪気なものだった。もし仮りに恋愛とでもいうべきものに似たものがあるとすれば、紀代子が豹一に綿々たる思いを書きつらねた手紙を手渡したぐらいなものだった。つまり、紀代子は彼女の文学趣味を喋るだけでは満足出来ず、文章にして見せたかったのである。手渡したのは、その場で読んで欲しかったからだったのと、さすがに許嫁のある身で、郵送するのははばかられたからである。豹一は紀代子と喋るだけでも相当気骨の折れる仕事だったから、手紙など書いてみようとすら思わなかった。だいいち、それが証拠品となって誰かに嗤われる種となるかも知れないと、警戒したのである。どんな場合でも、彼のそんな警戒心は去らない。
しかし、彼の自尊心は紀代子から手紙を貰ったことで、かなり満足されていた。自分に課した義務からもう解放されても良い頃だった。少くとも、紀代子への恋文を送った同級生の前では、どんな無茶なことでも言えるのだ。だから、もうあとの交際は半分惰性のようなものだった。実は、少しうんざりしていたのである。ただ、いやな父親の顔を見ているよりは、紀代子と会っている方が気が楽だった位のものである。それともう一つ、豹一にも案外気の弱い、しおらしいところがあって、理由もないのに約束をすっぽかすことが済まなく思われたからである。
そんな風だったから、二人の仲は三月も続いたが、あとで紀代子が自分に言って聴かせたように、「手一つ握り合わなかった清い仲」だった。豹一にそれ以上のものを求める理由もなかったからだった。紀代子にもたいして恋愛の経験はなく、また生れもよかったから慎しみ深かった。豹一と言えば全く少年だった。それに、豹一にはそんな真似を自ら進んでして、嗤われるだろうという心配があった。そんな臆病な自分を、しかしののしったこともある。
(紀代子がどんな顔をするか、いやがるかどうかを試してみる必要があるかも知れない)
しかし、もし豹一がその必要をもっと激しく感じたとしたら、元来が向う見ずな男だから、もっと大胆な行動に訴えたかも分らぬ。ところがそれだけは如何なる破目に陥っても出来ぬわけがあった。集金人の山谷からいつか聴いた話が心の底に執拗く根を張っていたから、そのようなことを想い泛べるだけで胸がかきむしられるのだった。
そんな風に三月続いたのだが、いきなり紀代子は豹一から離れてしまった。まるで何の先触れもなかったのである。豹一は訳が分らなかった。彼はつまらぬ顔をして、毎日そのことを考えた。が、ふと、つまりこれは紀代子のことを考えている勘定になるのではないかと、いまいましくなった。紀代子が鹿の眼のようだとうっとりしていた豹一の眼は、にわかに持ち前の険しい色を泛べ出した。(もっけの幸じゃないか)しかし、それだけでは釈然と出来ぬわけがあった。つい最近彼は紀代子と回転焼屋へ行った。いつも紀代子が勘定を払っていたが、その日に限って彼は、ふと虫の居所の関係で、(お前はこの女に施しを受ける気か?)という気になって自分で勘定を払おうとした。途端に、ズボンから銅貨が三十個ばかり三和土の上へばらばらと落ちた。二銭銅貨が二個あるほかは一銭銅貨ばかりで、白銅一つなかった。彼はみるみる赧くなった。もし落さなかったら、彼は「どや、銅貨ばっかりやろ」とわざとふざけて言って、勘定をすますところだった。それなら如何にも中学生らしいのである。ところが、落してみると、にわかにあのお君の息子となってしまった。紀代子ははッと豹一の顔を見たが、彼を愛していたから、直ぐ膝まずいて、一つ一つ拾ってくれた。そのため豹一は一層恥しい想いをしたのだった。母親がその一枚をこしらえるのにもどれだけ苦労したか分らぬその金を、のんきに女と二人で行った回転焼屋で落した。というだけでも辛かったのに、紀代子にそんな風にされると、もう彼は死ぬ程辛かった。
だから、そのことはなるべく想い出さぬようにしていた。想い出すたびに、ぎゃあーと腹の底から唸り声が出て来るのだ。しかし、紀代子が自分から去ったかと考えると、否応なしにそこへ突き当らざるを得ない。
(あのために俺は嫌われたのだ)
しかし、序でに言えば、紀代子はその時真赧になって半泣きの表情を泛べていた豹一の顔ほど、可愛いと思ったことはなかった。従兄と結婚してからも、この時の豹一の顔だけは想い出した位である。
つまり、紀代子は卒業の、即ち結婚の日が迫って来たのだった。正式の結納品が部屋に飾られたのを見た途端、紀代子はまるであっさりと心が変ってしまった。もともと彼女は、年齢よりも老けた気持をもっており、同級生の中でもいちばん早く結婚するのを誇りにしていたのだった。言わば、それが彼女の美貌を証拠だてるというわけである。豹一の魅力を以てしても、結婚を迎える胸騒がしい彼女の気持に打ち勝つことは出来なかった。それに、もともと豹一にはたった一つの魅力が欠けていた。つまり、「手一つ握り合わなかった清い仲」だったのである。
紀代子が結婚をするため自分と会わなくなったのだと知ると、豹一はついぞこれまで経験しなかった妙な気持になった。狂暴に空へ向って叫び上げたい衝動にかられたかと思うと、いきなり心に穴があいたようなしょんぼりした気持になったりする。まるで自分でも不思議な、情けない気持だった。彼は未だ嫉妬という言葉を知らなかった。知っていれば、もっと情けなくなったところだった。時にはうんざりした紀代子との夜歩きも、いまは他の男が「独占」しているのかと思うと、しみじみとなつかしくなるのだった。その顔も知らないのがせめてもだった。もし、行きずりにでも見たとすれば、豹一のことだから、一生記憶を去らずに悩まされたところだ。
豹一は自分が紀代子をたいして好いていなかったことを想い出して、僅に心を慰めた。しかし、今は紀代子の体臭などが妙に想い出されて来るのだった。
三
谷町九丁目から生玉表門筋へかけて、三・九の日「榎の夜店」の出る一帯の町と、生玉表門筋から上汐町六丁目へかけて、一・六の日「駒ヶ池の夜店」が出る一帯の町には路地裏の数がざっと七、八十あった。生玉筋から上汐町通りへ 」の字に抜けられる八十軒長屋の路地があり、また、なか七軒はさんでUの字に通ずる五十軒長屋の路地があり、入口と出口が六つあるややこしい百軒長屋もあった。二階建には四つの家族が同居していた。つまり路地裏に住む家族の方が表通りに住む家族よりも多く、貧乏人の多いごたごたした町であった。
しかし不思議に変化の少い、古手拭のように無気力な町であった。角の果物屋は何代も果物屋をしていた。看板の字は既に読めぬ位古びていた。酒屋は何十年もそこを動かなかった。風呂屋も代替りをしなかった。比較的変遷の多い筈の薬屋も動かなかった。よぼよぼ爺さんが未だに何十年か前の薬剤師の免状を店に飾っているのだった。八百屋の向いに八百屋があって、どちらも移転をしなかった。一文菓子屋の息子はもう孫が出来て、店にぺたりと坐った一文菓子を売る動作も名人芸のような落着きがあった。相場師も夜逃げをしなかった。
公設市場が出来ても、そんな町のありさまは変らなかった。普請の行われることがめったになかった。大工はその町では商売にならなかった。小学校が増築される時には、だから人々は珍らしそうに毎日普請場へ顔を見せた。立ち退きを命ぜられた三軒のうち、一家は息子を新聞配達に出し、年金で暮している隠居だったが、自分の家のまわりに板塀を釘づけられても動かなかった。小さな出入口をつけて貰ってそこから出入した。立のき料請求のためばかりではなかったのである。
全く普請は少かった。路地の長屋では半分崩れかかった家が多かった。また壁に穴があいて、通り掛った人が家の中を覗きこめるような家もあった。しかし、大工や左官の姿も見うけられなかった。最近では寿司屋が近頃十銭寿司が南の方で流行して商売に打撃をうけたので、息子が嫁を貰ったのを機会に、大工を一日雇って店を改造し、寿司のかたわら回転焼を売ることになったことなどが目立っている。
ところが、野瀬安二郎が大工を五日も雇ったので、人々はあの吝嗇漢[#ルビの「しぶちん」は底本では「しぶんち」]の野瀬がようもそんな気になったなと、すっかり驚かされた。転んでもただでは起きぬ野瀬のことやから、なんぞまたぼろいことを考えとるのやろと言うことになった。その通りである。
安二郎の隣に万年筆屋が住んでいた。一間間口の小さな家だったが、代々着物のしみ抜き屋だったが、中学校を出たそこの息子の代になると、万年筆屋の修繕兼小売屋へハイカラ振って商売替えすることになり、安二郎にその資本三百円の借用を申し込んだ。安二郎はその家が借家ではなく、そこの不動産だと確かめると、それを抵当に貸し付けた。その金がいつの間にか二千五百円を出る位になった。隣近所でも容赦はせぬと、安二郎は執達吏を差し向けて、銭湯へ出掛けた。万年筆屋が銭湯へ呶鳴り込んで来たが、安二郎は、「あんた、人の金ただ借りれると思たはりまんのか」と頭にのせた手拭をとってもう一つ小さく畳むと、また頭の上にのせた。その晩万年筆屋は立ち退いた。安二郎はこの間口一間の家を改造するために、大工を雇ったのである。
先ず二階の壁を打っ通して扉をつくり、自分の家の二階とそこの四畳半の部屋との間を廊下伝いに往来出来るようにした。階段はそのままに残して置き、店の間の土間にはただテーブルを一個と椅子二個ならべ、テーブルの上にはベルをそなえつけて、「御用の方はこのベルを押すこと」と、無愛想な文句をかいた紙きれをはりつけた。入口には青い暖簾をかけて、「金融野瀬商会」
べつに看板を掛けた。それには、
「恩給・年金立て替え
貯金通帳買います
質札買います」
恩給・年金の立て替えはべつとして、あとの二つは目新しい商売だった。貯金通帳を買うとは、つまり例えば大阪貯蓄などに月掛けしているものが、満期にならないうちに掛けられなくなったり、満期になったが、金を取るまでの日数を待ち切れなくなった場合、安二郎がそれを相当の値で買いとってやるのである。掛け金の額からは無論がちんと差引くから、あとでゆっくり安二郎が手続きして金をとればぼろい儲けになると、かねがね目をつけていた商売だった。
質札の方は、ただの二円、三円で買いとってやるのである。それをもって安二郎がうけ出しに行き、改めて古着屋や古道具屋へ売る。質札の額面五円の着物ならば、古着屋へは十二、三円から十五円、二十円にも売れる故、質屋へ払う元利と質札を買った金を差引いても、残りの利益は莫大だった。貧乏人の多い町で、よくよく金に困って、質草もなくただ利子に追われている質札ばかり増えるのを持て余している者がちょっとやそっとの数ではあるまい。だから目先のことだけ考えれば、どうせうけ出しも出来ぬ質札が金になるときけば有難がってやって来るだろう。その足許を見て二束三文で買いとってやるのだと、随分前から安二郎は此の商売をやりたがっていたのである。
ところが現在の家ではさすがにその商売は出来なかった。高利貸めいてひっそりと奥深く、見知らぬ人の出はいりにもじろりと眼を光らせねばならぬしもたやでは出来ぬ商売だった。そんなところへ安二郎の言葉を借りて言えば、「運良く隣の家が空いた」のである。
東西屋も雇わず、チラシも配らず、なんの風情もなくいきなり店開きをしたのだが、もうその日から、質札を売りに来た。ベルの音が隣の家まで通ずる仕掛になっている。安二郎はのっそりと腰を上げて廊下伝いに新店の二階へ出て、階段を降り、夏の土用以外に脱したことのない黒い襟巻を巻いた顔をぬっと客の前へ出すのだった。じろりと客の顔を見て椅子に腰を掛け、客には坐れとも言わずに質札を虫眼鏡で仔細に観察してから、質屋の住所と客の住所姓名を訊く。終ると、「金は夕方取りに来とくなはれ」と無愛想に言って、腰を上げると、取つく島のない気持でぽかんとしている客の顔を見向もしないで階段を上り、再び廊下伝いにもとの部屋に帰ってしまうのである。
豹一は学校から帰ると、その応待をやらされた。実はこんどの二階の部屋は豹一の部屋になったのである。安二郎の鼾が聴えて来ないことは有難かったが、ベルの音には閉口した。勉強の途中でも立たなければならなかったのである。そして客から質札を受け取ると、安二郎に見せに行く。それがたまらなくいやだった。どうしても安二郎と物を言わなければならぬからだった。なるべく安二郎とは口を利かぬようにしていたのである。
(自他ともにその方が得だ)と考えていた。自分も不愉快だから、安二郎も自分と口を利くのは不愉快だろうと、彼は口実をつけていた。しかし、安二郎は豹一をただお君が連れて来た瘤ぐらいに考えていたから、豹一の子供だてらの恨みなどには無縁だった。少くとも豹一が考えているほどには、豹一の気持など深く考えていなかった。自分の事をどう思っていようと、飯はあんまり食わぬようにしてくれさえすれば、べつに文句はないのである。中学校での行状がどうであろうとも、学資を出してやっているわけではない。ただ近頃はやっと家の用事に間に合うようになって、「猫の子よりまし」なのである。例えば、客の応待はしてくれる。質屋への使いに行ってくれる。
その質屋への使いだけは勘弁してくれと、豹一は頼みたかった。が、そのためには安二郎に頭を下げる必要がある。それがいやだった。豹一はむっとした顔で、渋々質屋へ行った。丁度運悪く紀代子のことですっかり悄気てしまい、自尊心の坐りどころを失っていた時だった。道を歩いていても、すれ違う人のすべてが自分を嘲笑しているように思えた。質屋の暖簾が見えるところまで来ると誰か見てへんやろかと、もう警戒の眼を光らせた。
(お前の母親はお前の学資を苦面するために、この暖簾をくぐったのだぞ)そう自分に言い聴かせて、はじめて暖簾をくぐることが出来た。それでも質屋の子供かなんぞのような顔をつくろってはいった。質屋の丁稚は、
「野瀬はんとこがすばしこい商売をやらはんので、わての方は上ったりですわ。わてらは流して貰わな商売にならへんのに、あんたとこが流れをくい止めはんねん。まるで堤みたいや」とこんなことを早熟た口で言った。なお、
「あんたところはぼろいことしはって、良家やのに、坊ん坊んがこんな使いせんでもよろしおまっしゃろ」
豹一はむっと腹を立てた。ただ、丁稚が主に安二郎の悪口を言ってみるのだという理由で、僅に食って掛るのを思い止った。蔵から品物が出されて来るのを待っている間、ちらとそこの娘が顔を出し、丁稚を叱りつけるような物の言い方をして、尻を振りながらすっとはいって行った。豹一はキラキラ光る眼でその背中を見送った。品物を用意してきた風呂敷に包み、
「胸に一物、背中に荷物やな」と、丁稚に言われて、帰る道は風呂敷包みをもっているだけ、往く道より辛かった。(胸に一物やぞ!)と、豹一は心の中で叫び、質屋の娘の顔をちらと頭に描いた。
(あの娘は俺をからかう為にのこのこ顔を出しやがったんだ。なるほど中学生の質屋通いは見物だろう)
奥へはいって行く時、兵児帯の結び目が嘲笑的にぽこぽこ揺れていたのを想い出した。(なんて歩き方だろう? 紀代子はあんな不細工な歩き方をしなかった)ひょんなところで、豹一は紀代子のことを想い出した。すると自尊心の傷がチクチク痛んで来るのだった。(あの娘を獲得する必要がある)思わずそう決心した。それよりほかに、今のこの情けない心の状態を救う手がないと思った。しかし、豹一はそんな莫迦げた決心を実行に移さずに済ますことが出来た。もっと気の利いた方法で自尊心を満足さすに足ることが起って来たからである。
ある日、豹一は突然校長室へ呼びつけられた。
「蛸を釣られる」のだろうと、度胸を決めて、しかしさすがに蒼い顔をして行くと、校長は、
「君に相談があるのや。掛け給え」と言った。風向きが違うぞと豹一は思い、もし風紀係にでもなれという相談だったら断ろうという覚悟を椅子にどっかりと乗せていると、
「君高等学校へ行く気はないか」
と意外なことを訊かれた。つい最近も教室で上級学校志望の調査表を配られた。四年生になると、もう卒業後の志望を決めて置く必要があるのだった[#「あるのだった」は底本では「あるのだつた」]。彼は上級学校へ行く希望はない旨、書き入れて置いた。中学校を卒業させてくれるだけで精一杯の母親のことを考えると、行きたくても行けぬところだったのである。
「はあ、べつに……」と答えた。
「なぜかね?」校長が訊いたが、豹一は答えられなかった。自分の境遇を説明出来なかった。
「なんででも、行きたいことないんです」
「そりゃ惜しいね」と校長は言い、「実は……」と説明したのはこうだった。ある篤志家があって、大阪府下の貧しい家の子弟に学資を出してやりたい。無論、条件がある。品行方正の秀才で四年から高等学校の試験に合格した者に限る。それも入学試験のむずかしい一高と二高と三高だけに限り、合格した者は東京、京都のそれぞれの塾へ合宿させる。そんな条件に適いそうな生徒があったら推薦してくれと、府下の中学校へ申込んで来た。その候補の一人に豹一が選ばれたのである。
(すると、俺は貧乏人の子だと太鼓判を押されたわけだな)と豹一は思った。どうして校長がそれを知っているのだろうと考えて、思い当るところがあった。
(俺が授業料滞納の選手権保持者だということを知っているんだな)豹一はみるみる赧くなり、逃げ出したい位の恥しさだった。と同時にむっとした。(俺はそんな施しは御免だ! 四年から一高か三高へはいれた秀才に限るだなんて、まるで良種の犬か競走馬を飼うつもりでいやがる)
豹一は腹を立てたが、しかしそんな候補に選ばれたことは少くとも成績優秀だと校長に認められたことになるのだと、些か慰まるものがあった。そんな豹一の心にまるで拍車を掛けるように、校長は、
「君が行きたくないということは、実に惜しいことだ。他にも候補者はいるけれど、自校では四年から一高か三高へ大丈夫はいれるのは君ぐらいだからな」と言った。豹一の自尊心は他愛もなく満足された。思わず微笑が泛んで来るぐらいだった。が、豹一は周章てて渋い顔になると、
「候補者は誰と誰ですか?」と訊いた。
「君のクラスの沼井と、それから四年F組の播摩だ」
沼井と聴いたからにはもう豹一は平気で居られなかった。いきなりぶるっと体が顫えた。
(なあんだ。沼井も学資を施して貰うのか。沼井が落第して、俺が合格するとなればこんな気持の良いことはない)そう思うと、元来が敏感に気持の変り易い彼はふと高等学校へ行ってみようかという気になった。母親に学資を苦面させるわけではない。それに、どうせ中学校を出ても、家でこき使われるか、デパートの店員になるよりほかはないのだ。(塾へはいれば安二郎の顔を見なくても済むのだ)それで肚が決った。しかし彼は即座に、じゃあ、そうさせていただきますとは言わなかった。行きたくないと言って置きながら、直ぐ掌をかえすように、行かせて貰いますと飛びつくのは余りに不見識で、浅ましい。
「校長先生のお言葉ですし、一ぺん家の者に相談してみます」こう言った。ここらに豹一が余り人から好かれないところがある。しかし、本当に母親だけに相談する義務はあった。
「そうか。じゃあ相談してみたまえ。なるべく行くよう。中学校だけで止めるのは惜しいからね」
「僕もそう思います」
帰って母親に、「人の施しを受けて高等学校へ行く可きかどうか」と真剣な顔で相談した。お君は、「私は如何でも良え。あんたの好きなようにし」しかし、「あんまり遠いところへ行かんといてや」
京都の三高へ行くことに決めた。翌日校長先生に呼ばれると、
「校長先生のお言葉ですし、K中学校の名誉のために見事合格して見よう思います」こんないや味な返事をした。が、その言葉は概して校長の気に入った。
「君はあんまり品行方正とは言えんが、とにかく出来るから推薦したのだ。しっかりやってくれ給え」
豹一は沼井が三高を受けるのか、一高を受けるのかとそのことばかり考えていたので、校長の言葉も不思議に苦にならなかった。
豹一はその日から猛勉強をした。心に張りがついた。彼の自尊心はその坐り場所を見つけることが出来たのである。(俺が高等学校の帽子を被る日に、一ぺん紀代子に会っても良い)と、思った。(しかし、紀代子は俺の学資の出所を見抜くかも知れない)
豹一は翌年の四月、三高の文科へ入学したが、だから紀代子にだけは未だ会わす顔はなかった。
四
夕飯が済むと、豹一はぶらりと秀英塾を出た。塾を出ると道は直ぐ神楽坂だが、豹一は神楽坂を避けて、途中で吉田山の山道へ折れて行った。神楽坂の上にあるカフェの女が、二、三日前変な眼付で彼を見たからである。
「まあ、見とおみ、子供みたいな三高生が行きはる」
豹一は未だ十七歳だった。その年齢の若さを彼は気にしていたのである。そんな若さで高等学校へはいる者は少いのだと己惚れることも出来たが、しかし子供っぽく見えるということはやはりいやだった。髭を伸ばしてうんとじじむさくなってやろうと思っても、一向に生えてくれないのだった。最近ニキビが二つほど生じたので、少し嬉しかった。(十七で三高だから秀才か? いやなこった)彼も中学校にいた頃とは随分変った。前は首席になるために随分骨を折ったものだった。が、秀才とは暗記力の少し良い、点取虫の謂いではないか? 彼は同じ秀英塾に寝起している三高生を見ると、もう秀才というものに信用が置けなかった。塾生は十人いた。何れも四年からはいった秀才ばかりである。ところが、彼等はただ頭脳の悪い勤勉な生徒に過ぎないのだ。暗記力は良い方だといってもよいが、しかし彼等のように飯を食う間も暗記していれば、記憶えられぬ方が不思議だ。教室では教師の顔色ばかりうかがっている。教師の下手な洒落をもノートにうつす始末だ。教師が教室で講義に飽いて雑談すると、「それ試験に出ますか」と質問するていの点取虫だ。おまけに塾の掟を何一つ破るまいと、立居振舞いもこそこそしている。時に静粛を破って寮歌をうたったりするが、それも三高生になれたという嬉しさの余りのけちな興奮だ。
(だいいち秀英塾だなどと名前からしていやだ)
塾といっても、教師は居らず、ただ三年生の中田が塾長の格で塾生を監督し、時々行状を大阪の「出資者」(――と豹一は呼んでいた――)に報告するだけだった。塾生の外に賄夫婦がいるだけで、昔通りの合宿所とたいして変りはなかった。が、掟だけは厳しい。
例えば塾生は絶対に塾以外の飲食を禁じられている。学校のホールで珈琲ものめない。無論昼食は持参の弁当である。それも一人々々が持参するのではなく、十人分の飯を入れた櫃と、菜をいれた鍋を登校の際交替で持って行くのである。豹一は風呂敷に包んだ櫃を背負うて行く学校までの道が、あの質屋からの帰り道よりも辛かった。
それもたとえば短艇部の合宿生が面白半分に担いで行くのだったら、いや味な無邪気振りながら、未だ人の眼にはましだ。しかし、学資を支給されている塾生がそれを担いで行くのは、まるで犬が自分の食器をくわえて歩いているようで浅ましく恥しい。「出資者」の好みだろうが、まるでそれは、「俺は施しを受けているのだ」という宣伝のようだった。塾生がホールへ顔出ししないということで、あいつらは聖人面の偽善者だという眼で見られていることに気が付くと、豹一はある日敢然としてホールで珈琲をのんだ。
尚、塾生の夕飯後の散歩は一時間と限られていた。午後七時以後の外出は、だから特別の事情のない限り許されぬのである。
(この掟を破る義務があるかも知れない!)吉田山の山道を歩きながら、豹一はふとそう思った。すると、異様に体が顫えて来た。何か思い切ったことをする前のあの興奮だった。
(しかし、なぜそんな義務があるのだろうか?)
未だそれを実行する勇気が出なかったから、彼は詭弁めいてそんな疑問を発した。偽善者と言われている他の塾生と同列に見られたくないからだろうか? それとも主人に尾を振るのがいやなためか? 塾長の機嫌を取りたくないためだろうか? ――この考えは彼の気に入った。ともあれ彼は「出資者」への感謝ということを知らぬ忘恩の徒だった。彼がこれまで感謝したのは母親にだけだった。
(そうだ!)といきなり豹一は呟いた。(俺が掟を破る義務を感ずるのは、誰もそれを破る勇気のある奴がいないからだ!)
そう思いつくと、彼ははじめて決然として来た。京都特有の春霞のなかに、キラキラと澄んだ光で輝いている四条通の灯が山の上から眺められた。その明るい光がほのぼのとしたなつかしさで自分を呼んでいると、大袈裟に思った。
(そうだ、四条通へ行こう。あそこなら一時間では帰れぬだろう。掟を破るのはいまだ)
豹一はその決心を示すように、白線のはいった帽子を脱いで、紺ヘルの上着のポケットへ突っ込んだ。(なんだ。こんな帽子)
彼は塾生の誰もが三高生であることを誇りとして、銭湯へ行くのにも制帽を脱がぬのをひそかに軽蔑していたのである。人一倍虚栄心の強い豹一がそんな制帽に未練をもたぬとは、彼も相当変ったのである。しかも京都では三高の生徒位、「もてる」人種はいないのではないか。彼は腰につるしていた手拭をとってしまった。
(これはなんのまじないだ! 三高生の特権のシンボルか)
つまり、彼はその特権が虫が好かないのだった。
豹一は吉田神社の長い石段を降りて、校門の前まで来た。門衛の方を覗くと、そこに自分の名前を書いた紙片が貼出されてあった。はいって自分宛の手紙を受け取った。手紙は母から来たもので、彼は塾長に知れることを警戒して、いつも学校宛に手紙を送って貰っていたのだった。案の定、五円紙幣が二枚、べったりと便箋にはりつけてあった。為替を組むことを知らないのである。お君は豹一が塾で授業料や書籍文房具代のほかは月一円の小遣しか貰っていないと知ると、内職の針仕事で儲けた金を豹一に送って来るのだった。そのため豹一は小遣には困らなかったが、そのたびに胸を刺される思いがした。
豹一はひとけの無いグラウンドに突っ立って紙幣を便箋からはがしてポケットへねじこんだ。手紙はあとで読むことにした。何か母親の手紙を読むのが怖いのである。暗くて字が読めぬのを口実にした。
グラウンドの隅に建っている寄宿舎はわりに静かだった。皆んな夕食後の散歩に出掛けたらしかった。記念祭が近づいたので誰もそわそわして落ち着かず、新入生の歓迎コンパだと称して毎晩のように京極や円山公園へ出掛けて行くらしく、その自由さが豹一には羨しかった。
ふと振り向くと、東山から月がするすると登っていた。それが豹一の若い心を明るい町の方へ誘うようだった。その左手の叡山には、ケーブルの点々と続いた灯が大学の時計台の灯よりもキラキラと光って輝いていた。校庭の桜の木は既に花が散り尽し、若葉の匂いがした。暗いグラウンドに佇んでいると、いきなり肩を敲かれた。見ると、同じクラスの赤井柳左衛門だった。赤井柳左衛門は寄宿舎にいるんだなと、途端に豹一は思った。
赤井はその名前が変挺なので、誰よりも先にクラスで存在を認められた。が、豹一はもっと違ったことで彼の存在を知った。赤井は教室でもっとも大胆に大きな声で笑う男だった。それも他の者と一緒に笑うのではなく、誰も笑わない時にいきなり大声で笑い出すのだった。例えば教師がこっそり欠伸を噛み殺しているのを見つけると、彼の笑いが皆を驚かすのだ。そのためには教師の講義もろくにノートせず、教師の動作に注意を配っている必要があるわけだと、ある日豹一は自分が笑おうとした途端に彼に先を越されて、すっかり敬服してしまったことがある。その前の日も、独逸語の時間にいきなり赤井は席を立つと、物も言わず教室を出てしまった。それで覚えていた。
「おい、何しているんだ? こんなところで――」
赤井は顔中に微笑の皺をつくりながら言った。思い掛けず赤井の顔を見たことで、豹一はすっかり嬉しくなった。
「町へ行こうかどうしようかと考えているんだ」
「行こうか京極、戻ろか吉田、ここは四条のアスファルトだな」と、赤井は歌うように言って、「僕も行こうと思っていたところだ。どうだ、一緒に行かんか」
「行こう」
赤井を見たので、豹一は今夜の計画が容易く実行出来ると思った。寄宿舎の横の小門を出て、電車道伝いに近衛通の方へ肩を並べて歩きながら、豹一は、
「君は何故皆んなと散歩に行かなかったんだ?」
と訊いた。すると、赤井は急に背が伸びたような歩き方になって、
「僕は寄宿舎の連中が嫌いなんだ!」吐き捨てるように言った。そして、暫く黙っていたが、ふと引攣るような微笑を顔に泛べると、
「昨日僕は寄宿舎の連中に撲られたんだ。レインコートを着ているのが生意気だというわけさ」
なるほど赤井は紫色のレインコートをいまも着ている。
「なにも三高生が黒いマントを着て、薄汚い手拭をぶら下げて、高い下駄をはいて、蛮からな声で呶鳴って、みやびやかな京の町の風情を汚さなければならないという法はないよ。だから僕はわざとレインコートを着てやったのさ。彼等の蛮カラ振りは心からのものじゃないんだ。ありゃ見栄だよ。三高生という看板をかついで歩いているだけだよ。君は帽子を被っていないね。君は良いところがあるよ」赤井は上ずった声でそう言って、僕も脱ぐよと帽子を脱いだ。赤井に真似をされたので豹一は簡単に自尊心が温まった。
荒神口の方へ道を折れて行った。赤井はなおも興奮して一人で喋った。
「彼等は郷に入れば郷に従えといいやがるんだ。それは僕も知っている。しかし、彼等が郷に従うのは彼等の無気力のためだ。彼等の保身のためだ。けちくさい虚栄心のためだ。豚でも反吐を吐く代物だ」
豹一はふと中学生時代沼井からその言葉を言われたことを想い出して、苦笑した。にわかに赤井が自分の血族のようになつかしくなって来た。あの時、自分は撲られたが、赤井も撲られたのだ! しかし府立一女の寄宿舎の前まで来ると、急に豹一の顔色が変った。
「君金持ってるか」と赤井に突然訊かれたのである。豹一は此の言葉に腹を立てるべきかどうか、ちょっと思案した。秀英塾の塾生は月に一円しか小遣を支給されないことを赤井は知って、それを言ったのではなかろうか?
(俺の貧乏を嘲笑するつもりなら許さぬぞ)
しかし、赤井の次の言葉を聴いて、豹一の心はすっかり明るくなった。
「実は僕は今日はゲルが無いんだ。質に入れるものもない。此のレインコートを入れてやろうと思うのだが、これは当分着ている必要があるんだ。彼等が怖くて郷に従うたと思われては癪だからね。君持っているなら今晩のところは頼むよ」
豹一はちょっと赧くなって、
「持ってるよ」と言い、ポケットへ手を突っ込んで、なんと言うこともなしに母親が送ってくれたあの紙幣をさわって見た。
「親父が学生は金を持つと為にならんて言いやがって、ちょっとも送ってくれないから困るよ」と赤井は別に赧い顔もせずに言った。
「僕の親父は変な奴なんだ。柳左衛門という名前をつけやがったことはまあ我慢するとして、僕の中学生時代いつも教室へのこのこ参観しに来やがるんだ。すると、教師が僕に暗誦をさせるんだ。僕は親父が背後で見ていると思うと、あがってしまって、出来やしないんだ。クラスの奴等は僕の親父が来ていることを知っているから、クスクス笑いやがる。すると僕は一層あがるんだ。親父はつかつかと僕の立っている傍へ来ると、僕の背中をつつきやがるんだ。なぜ、暗誦して来ないんだって。そいつは教師の言う文句じゃないか。教師も困って変な顔をせざるを得んよ。止せば良いのに、親父め一週間も経つと、またのこのこ参観に出て来るんだ。おかげで俺は今日は親父が来やしないかと、毎日ひやひやして、ろくすっぽ教師の講義も耳にはいらなかったよ」
「三高へは来ないのか?」と、半分慰めるように豹一が訊くと、赤井は瞬間変な顔をして、
「遠いからだ」と狼狽した。ふと豹一は、あれは赤井の父親ではないだろうかと思った。入学の宣誓式の時、生徒主事のG教授が長時間にわたって生徒の赤化に就て注意的訓話を述べたが、G教授は物凄い東北弁で、喋っていることの意味がちっとも分らなかった。G教授の訓話が終った途端、うしろの父兄席にいた一人の紳士がいきなり立ち上って、「あなた今何を喋られたのですか。お言葉の意味が少しも分らないので、生徒はじめわれわれ父兄は不安且つ迷惑である。要旨をもう一度明瞭に言っていただきたい」と顔に青筋を立てて言った。「馬鹿! 坐れ」という者もあり、笑う者もあり拍手もあった。その紳士が赤井の父親ではないだろうかと思ったのである。訊いて見ると、果して赤井は、「そうだ。僕の親父なんだ」と眉毛をたれた情けない顔をした。その表情を見ると、豹一は、赤井の突飛な行動もあるいは此の父親のことが原因しているのではないかと思った。そう言えば、赤井の父親も向う見ずなところがある。すると、赤井が妙に気の毒になって来た。
(しかし……)と豹一は思った。(とにかく赤井の父親は赤井をその独特の方法で愛している。ところが俺の現在の父親と来たら、いまでも俺が高等学校から追い出されたら、俺を質屋へ使いに出す肚でいる。どっちが不幸か分るもんか)
豹一は父親に愛されている赤井と、憎まれている自分とどっちが幸福かと、大人じみた思案をした。が、やがて寺町通の明るい灯がぱッと眼にはいると、豹一はもうそんな思案を中断しほうッと心に灯をともした。
寺町二条の鎰屋という菓子舗の二階にある喫茶室へ上って行った。蓄音機も置かず、スリッパにはきかえてはいるような静かなその喫茶室が三高生達の記念祭の歌と乱舞で乱暴に騒がしかった。豹一と赤井はわざとそんな連中を避けて、窓から東山の見える隅のテーブルへ腰掛けた。女給仕に珈琲を註文した赤井は、ちらとその女の背後姿を見ながら、
「あいつらはなぜこんなに騒いでいるか知っとるか」と豹一に訊いた。
「上品な喫茶店だから、わざと騒いで見たいんだろう」
騒いでいる連中の一人が、子供づれの夫婦のテーブルに近づいて帽子を取ると、「いや、ガンツ、ガンツ(―非常に―)済みません」と、ぐにゃぐにゃと頭を下げながら、媚を含んだ声で言って、再びまた騒ぎの群へ飛び帰って行くありさまをにがにがしく見ながら、そう言うと、赤井は、
「それもある。ところが、此の喫茶店は代々三高生の巣で、しかもここの息子がいま三高の理乙にはいっているから、少しぐらい騒がなきゃ損だと思ってやがるんだ。それだけじゃない。今ここへ女が来たろう。お駒ちゃんて言うんだ。皆そいつに気があるもんだから、わざと騒いでいやがるんだ。黙っていても口説けない者が騒いだって口説けるもんか」
赤井は痩せた頬に冷笑を泛べた。なるほど、赤井が言った「お駒ちゃん」は皆の対象となっているらしく、騒ぎながらちらちらお駒の顔を見ているのが、豹一にもありありと分った。なかにはわざと酔っぱらった振りをしてお駒にしがみついて行く奴もいる。すると、お駒はげらげらと笑いながら、すっと奥へひっこんで、また顔を出す。豹一はそんなお駒の仕草までが癪にさわった。しかし、いずれ何かの必要もあろうかと、その女の顔はしかと記憶えて置くことにした。じろじろ見ていると、お駒は奥へ入ったかと思うと、お茶を持って直ぐに豹一のテーブルへ来た。赧い顔をしていた。豹一は鼻糞をほじっていた。
十分程してそこを出た。出しなに柱時計を見ると、秀英塾を出てから丁度三時間経っていた。外出時間も丁度切れたと思うと、豹一は重苦しい心がすっと飛んでしまい、足取りも軽かった。「吸え」と赤井が出してくれた「ロビン」という煙草を吸った。が、はじめて吸うので、むせていると、
「こんな軽い煙草にむせる奴があるか」と赤井に言われた。よし、いまに強い煙草が平気で吸えるようになってやるぞと自分に言い聴かせて、何という煙草が強いのかと眼をきょろつかせていると、赤井は、
「ロビンは十銭なんだ。チェリーも十銭だが、チェリーよりもうまいぞ」と通らしく言い、
「ロビンはコマドリか。おい、『コマドリ』へ行こうか。あそこも三高の奴らで一杯だな。正宗ホールも一杯だろう。さてどこへ行こうか」
三条通から京極へ折れて行こうとすると、
「待て、待て」と赤井が止めた。どこへ行くつもりなのかと立止ると、赤井は豹一をひっ張って、「此処を通ろう」とわざわざ三条通の入口からさくら井屋のなかへはいり、狭い店の中で封筒や便箋を買っている修学旅行の女学生の群をおしのけて、京極の方の入口へ通り抜けてしまった。豹一があっけに取られていると、赤井は、
「これが僕の楽みだ。ちっぽけな青春だよ」と、赧い顔をして言ったが、急にリーダーの訳読でもするような口調になって、
「さくら井屋には旅情が漲っている。あそこには故郷の匂いがある。なあ、そうだろう?」と言った。豹一は赤井も気障なことをいう奴だと思ったので、返事をしなかった。すると赤井は何か思いついたらしく、
「実は此の間僕の妹も修学旅行に京都へ来たんだよ。ところが、妹の奴さくら井屋の封筒が買えなくなったといって、泣き出しゃがるんだ」
赤井の妹ならば、さぞかしひょろひょろと痩せて背の高い、眼の落ち込んだ、びっくりしたような顔の娘だろうと、豹一はふと微笑した途端に、胸が温った。赤井の言った旅情というものかも知れなかった。妹が兄のいる京都へ修学旅行に来るというそのことが、妹をもたぬ豹一の心を思い掛けず遠く甘くゆすぶって来たのだった。夜汽車の窓を見る気持に似ていた。豹一は晩春の宵の生暖い風を頬に感じた。
「何故妹の奴封筒が買えなかったか知っているか?」不意に赤井が怖い顔をして訊いて来た。そして豹一の返事を待たずに、
「僕が妹の金を捲きあげてやったからだ」そう言って、にわかに赤井の顔が険しくなって来たかと思うと、不意に長い舌をぺろりと出し、
「うわあ!」とわけの分らぬ叫び声をあげた。驚いて豹一が見ると、赤井はフラフラダンスの踊子のように両手を妖しく動かせて、どすんどすんと地団太を踏みながら、長い舌をぺろぺろ出し入れしているのだ。そこが土の上ではなかったら寝ころんで暴れまわりかねない位のありさまだった。擦れ違う人々はびっくりした眼を向けていた。が、赤井の発作は直ぐ止んだ。そして、小売店、食物店、活動小屋、寄席などが雑然と並び、花見提灯の赤い灯や活動小屋の絵看板にあくどく彩られた狭くるしい京極通を歩いて行ったが、ふとひきつるような顔になると、
「どうも僕は三日に一度あんな発作が起って困るんだ」と言った。
「何か恥しいことを想い出した時だろう?」満更経験のないでもない豹一がそう言うと、
「そうだ。どうやら脳黴毒らしい」赤井は簡単にそう言い放ったが、直ぐ心配そうな顔になると、最近さる所へ「肉体の解放」に行ったが、とても汚ならしい女だったから、どうやらジフレスを貰ってもう脳へ来ているかも知れないと、しょんぼりした声で言った挙句、
「僕の青春はもう汚れているんだ!」と、これはわざと悲痛な調子で言った。豹一はそんな赤井の図太い生活にふと魅力を感じたが、僕の青春云々が妙に赤井の気取りのように思われたので、「心配する位なら、行かない方が良いんだ」と突っ離すような、冷かな口を利いた。すると赤井は、「そうだ。そうだ」と苦もなく合槌を打って、「僕は心配なんかしていないぞ。ジフレスがなんだ。そう容易く罹るもんか。昨日僕はちょっと医学書を覗いてみたが、脳へ来るのには五年や十年は掛るらしいんだ。僕の頭は未だ健全なんだ」自分で自分の言葉を打ち消した。
(赤井はえらい男だが、自分の行動を誇張して人に喋りたがるのが欠点だ。つまりデカダン振るのだ。俺なら黙って行る)
豹一はそう思うと、はじめて自分と赤井との違うところが分ったような気がした。が、実は豹一も元来が自分の行動の効果が気になる質であった。たいして赤井と違いはしない。だからこそ、赤井の中にある虚栄に反撥したくなるのだった。豹一は赤井という鏡にうつった自分の姿に知らず知らず腹を立てていたのだ。
「そうだ、健全らしいよ」豹一はちょっと皮肉って見た。赤井は敏感にそれを察した。大袈裟に、
「僕の行為は軽蔑に値するか知らないが、しかし、肉体の解放は極く自然なんだ。不自然な行為のかげにこそこそ隠れているより、大胆に自然の懐へ飛び込んで行く方が良いんだ。汚れてもその方が青春だ。僕のように敢然と実行する勇気のない奴は、僕を軽蔑する振りで自分の勇気の無さを甘やかしていやがるんだ」
(自分の行為を弁解しているのだ)と豹一は思った。が、実のところ、彼にはこのようにうまく理窟が言えなかった。だから、彼は、
(こいつがこんなに弁解ばかりしているのは、気の弱いせいだ)と思うことにした。彼は冷笑的に黙々としていることによって、やっと赤井の圧迫から脱れられると思った。
(こいつはこんな自己表現にやっきとなっているが、俺は一言も今晩の計画に就ては喋っていないぞ)
そう言い聴かせることによって、豹一は黙っている状態に意味をつけた。しかし、豹一自身気がついていないことだったが、彼がそんな風に黙っていたのは、なにか奇妙な困惑に陥いっていたからでもあった。彼は赤井の興奮に強いられて、その共鳴を表現することを照れていたのである。芸もなく赤井と一緒に興奮して、青春だ、青春だと騒ぐのが恥しいのである。つまり彼は自分の若い心に慎重になっていたのだ。美しい景色をみて陶酔することを恥じる余り、その景色に苛立つのと同じ心の状態で、彼は赤井の若さに苛立っていたのである。豹一は告白という、青年につきものの行為を恥しく思う男だったのである。彼のように興奮にかられ易い男が、他人の興奮に苛立つのはおかしいと人は思うかも知れないが、しかし豹一の興奮には多少とも計算がまじっていた。だから彼は他人の若い興奮の中にも見えすいた計算を直ぐ嗅ぎつけてしまい勝ちだった。
赤井は豹一が少しも自分に共鳴しないのを見て、酔わす必要があると思った。豹一だけが自分の心を解してくれる唯一の男だと思っていたのである。丁度京極の端まで来ていた。赤井は先に立って、花遊小路の方へ折れて行き、
「この小路の玩具箱みたいな感じが好きなんだ。僕はいつも京極へ来ると、さくら井屋の中と花遊小路を通り抜けることにしているんだ」
と言いながら、四条通へ抜けると、薄暗い小路へはいって行った。崩れ掛ったお寺の壁に凭れてほの暗い電灯の光に浮かぬ顔を照らして客待ちしている車夫がいたり、酔っぱらいが反吐を吐きながら電柱により掛っていたりする京極裏の小路を突き当って、「正宗ホール」へはいった。
そこも三高生の寮歌がガンガンと鳴り響いていた。「紅燃ゆる」の歌もこんな風に歌っては台無しだと思いながら、豹一は赤井のあとについて、隅のテーブルに腰掛けた。たにしの佃煮と銚子が来ると、赤井は、
「君飲めるだろう?」と、盞を渡した。
「うむ」と曖昧に返事をしたが、実は飲むのは生れてはじめてなのである。飲めないと思われては癪だと、赤井がついだのを一息に飲みほしたが、にがかった。たにしを箸でつついていると、「おい、僕にもついでくれ」と言われて、周章てて下手な手つきでついでやると、赤井は馴れた調子で、ぐっとさもうまそうに飲みほした。感心してぽかんと赤井の顔を見ていると、いつの間にか自分の盞が一杯になっていた。それもにがかった。そうして七、八杯続けざまに飲んだが、いつも吐き出したいようなにがさだった。たにしをいくら口の中に入れてもそのにがさは消えなかった。たぶん俺は変な顔をしているだろうと、豹一はそれを誤魔化すように、
「喧しい奴らだ」
と言いながら、手を伸ばして赤井の煙草を一本抜きとり、吸ったが、それで一層胸が悪くなった。
(あいつらでも酒が飲めるんだぞ! それだのにお前はなんてだらしが無いんだ? これ位の酒に胸が悪くなるなんて)
ふらふらする頭を傾けて、騒いでいる連中の方をちらと見た途端、一人の生徒が、
「おい、なんだと? 先輩だ?」と呶鳴りながら席を立って行くのが眼にはいった。
「そうだ、僕は先輩だよ」四十位の洋服を着た、貧弱な男がおどおどした容子でそう言った。
「じゃあ、何期生だ?」その生徒は昂然とズボンに手を突っ込んだ儘言った。男はすっかり狼狽して、
「先輩だよ。先輩といったのが何が悪い?」
「何期生か言って見ろ!」
返事はなかった。恐らくその男は騒いでいる三高生の機嫌を取るために、「しっかりやれ! 諸君、僕は先輩だよ」とかなんとか言ったのに違いないと、豹一は咄嗟に判断して、馬鹿な奴だと思った。むしろ役所の小役人風めいたおどおどしたその男の態度が哀れだった。が、その男よりもその生徒の方を一層軽蔑した。恐らくその男の貧弱な服装を見て、先輩とは偽だと睨んで、突っ掛って行ったに違いない。
(良い服装の堂々たる押し出しの男から先輩だと言われたのなら、たぶんぺこぺこして盞を貰いに行っているところだろう)
「言えないだろう? ざまあ見ろ! 第三高等学校の先輩だなんて、良い加減なことを言うと、承知せんぞ!」
まるで犯人に言うような言い方で、その生徒が呶鳴ると、拍手があった。すると、彼はますます得意になって、じろじろ部屋の中を見廻しながら、
「俺は官立第三高等学校第六十期生山中弦介だ!」
最期の花火を打ち揚げると、すっかり悄気て何やらぶつぶつ口の中で呟いているその男を尻眼に席へ戻った。途端に、豹一の耳の傍で、
「三高生がなんだ?」
割れるような声がした。赤井だった。
「誰だ? 呶鳴った奴は……」向うから先刻の生徒がそう呶鳴った。
「俺だ!」そう言って赤井が立とうとするのを、豹一は止めて、
「僕に任せろ」とふらふらと立って、
「文句のある奴は表へ出ろ!」そう叫びながら、外へ出て行った。その拍子にまるで地の揺れるような眩暈がして、ゲッと異様なものが胸を突きあげて来た。豹一は塀に両手を突いて、反吐を吐いた。眼の前が一瞬真っ白になり、倒れそうになった咄嗟に、
(誰も出て来ないな)と思った。「止せ! 止せ! 向うも三高生だよ」としきりに止めているらしい声が聴えた。ガラス障子のなかには濛々たる煙が立ちこめ、人々が蠢いているのを遠い舞台を見るように眺めた。すっかり吐いてしまって、暫く塀に凭れてしゃがんでいると、不思議なくらいしゃんとして来た。
誰も出て来ないと分ると、豹一は自分の行動が妙に間の抜けたものに思われて来た。赤井に先を越されたという想いと、一つにはその生徒の英雄を気取った、威嚇的な態度に対する義憤から、飛び出してみたものの、一人相撲の感があった。
(うまい時に飛び出して反吐を吐くところを誰にも見つけられなかっただけが、もっけの倖いだった)そう諦めて、豹一は再び正宗ホールのガラス障子をあけた。先刻の生徒と視線が合った。豹一はわざとその傍をゆっくり通って、元の席へ戻った。
赤井は向い側に坐っている二人連れの上品な顔をした男と前から知り合いのような顔で、盞のやりとりをしていた。
「喧嘩は止し給え」豹一が席に腰を掛けるなり、その一人がそう言って、盞を豹一に向けた。鼻の大きすぎるのが気になったが、感じの良い顔だと思った。もう一人の男が酌をしてくれた。その男は顎が尖っていた。が、べつに悪い感じの顔でもなかった。どちらも若い顔をしていたが、もう四十を過ぎているらしかった。
「君、顔が蒼いぞ」もうぐにゃぐにゃと酔っぱらっている赤井が言った。反吐を吐いたためだったが、豹一は興奮のためだと思われやしないだろうかと心配した。それで、見知らぬ男がついでくれた盞をぐっと飲みほした。
騒いでいた連中は、「第三高等学校万歳! 昭和六年度記念祭万歳!」と気勢を揚げて、乱暴に入口の障子をあけて出て行った。
「あいつらは名刺にも官立第三高等学校第何期生と刷っていやがるだろう」
豹一が言うと、鼻の大きな男は、
「辛辣だな。君達も高等学校なんだろう?」顎の尖った男と顔を見合せて、意味もなく笑った。豹一はむっとした顔をした。
「そんな変な顔をするなよ。どうも君達は気が短い。向うも若いが、君たちも若い。が驚いたね。一人が呶鳴ったかと思うと、一人が飛び出している。呼吸が合ってるね。そこが気に入ったよ」
豹一はこんな風に批評されるのを好まなかった。早く切り揚げようと、赤井に目くばせしたが、赤井はまあ良いじゃないかという顔をした。すると、顎の尖った男が、
「どうです? やりませんか?」と豹一にたにしの佃煮をすすめた。頑として黙っていると、
「遠慮はいらんよ。実のところこれはいくらでもお代りが出来るんでね」
その気取りのない調子が豹一にはちょっと気に入った。やがて、鼻の大きな男が、
「どうだ、この学生と一緒にガルテンへ行こうか」と顎の尖った男に言った。
「良かろう。面白い。可愛いからね」
そして豹一らの分まで無理に勘定を済ませると、
「どうです? 一緒に行きませんか」割に丁寧な物の言い方で言った。
「どこでも行きますよ。畜生!」赤井はやけになってそう叫び、黙ってむつかしい顔をしている豹一の傍へ寄ると、
「行こう。面白いじゃないか。ガルテンと言うのは祇園のことだ。園は独逸語でガルテンだろう?」耳の傍で囁いた。
「僕は帰ります」豹一はだし抜けに言った。
(どうせ、俺らを酒の肴にするつもりだろう? いやなこった。誰が幇間になるもんか。赤井の媚びた態度はなんだ)
意味もなくげらげら笑って、畜生! 畜生! と力んでいる赤井をきっとした眼で睨みつけた。鼻の大きな男は、
「どうして? いいじゃないですか。それとも怖い? なるほど君は未だ若いからね」
若いと言われたことが豹一の自尊心をかなり傷つけた。
「怖いことはない!」
「じゃ、ついて来給え」
渋々承知した。正宗ホールを出て、小路を抜けると、四条通を円山公園の方へ歩いて行った。右側の有名な茶屋のある角を折れて、格子戸のある家へ四人であがった。芸者が四人来た。そのうちの大柄の女が豹一を見て、「まあ、可愛い坊ん坊んやこと。おうちどこどすか?」と言った。豹一は横を向いたまま、
「大阪だ」とにがにがしく答えた。体を動かすと、また吐きそうだったからである。
「まあ大阪どっか。あてかて大阪で生れたんどっせ。さあ唄っておみやすな」
そして芸者は、テナモンヤナイカナイカ、道頓堀よ――と唄った。むろん豹一は唄わなかった。
一時間ほどして、ふらふらと赤井と一緒にそこを出た。残っている二人に挨拶も出来ぬほど意識が朦朧としていた。南座の横のうどん屋へはいって、鯡うどんを食べた。なんとなく、タヌキということが想い出された。出ると、赤井は、
「金を貸してくれ」と言った。ポケットから五円紙幣を掴み出して渡すと、
「君も一緒に行かんか」
「いやだ!」自分も驚くほど大きな声で答えた。赤井の行くところは大体分っていた。たぶん宮川町の遊廓だろう。いやだと答えたのは本能的なものだった。先刻の席で胸苦しくなって、吐くために芸者に案内されて洗面所へ行った時にだしぬけに経験された、唇をなめくじが這うような、焼いた蜜柑の袋をくわえるような、薄気味わるい感触が、ぞっとするいやさで想い出されるのだ。
赤井は、
「じゃあ、行って来るよ。僕を軽蔑するなよ」そう言って身をひるがえすと、川添いの暗闇のなかへ吸い込まれて行った。
豹一は円山公園から知恩院の前へ抜けて、平安神社の方へ暗い坂道を降りて行った。そして岡崎の公園堂の横から聖護院へ出て、神楽坂を登って秀英塾へ帰った。大学の時計台が十時を指していた。義務を果したという安心でホッとすると疲労が来て、直ぐ床を敷いてもぐり込んだ。塾生はちゃんと就眠時間を守っていた。が、塾長の中田は暗闇のなかで目を光らせていて、豹一の口から吐出される「醜悪な臭」をかいだ。中田は無論豹一が掟を破ったことに就て、大阪の塾主へ報告すべきであると思った。が、その破り方が余りに大胆過ぎたので、ひょっとしたらこれは塾長たる自分の落度になりはしないかと思い、報告は後日に延ばすことにした。いずれ機会はいくらでもあろう。あの男のことだ! その豹一はもう前後不覚になってぐっすり眠っていた。
五
やがて五月一日の記念祭の当日になった。熊野神社から百万遍迄の舗道には到るところにポスターが貼られていた。校庭に面した教室の板塀にもクラスの名と仮装行列の題を書いたポスターがそれぞれにあった。どのポスターにも桜の中に三の字のはいった学校のマークが描かれてあった。午前十時半に式と記念講演がすむと、直ぐ仮装行列がはじまった。楽隊が雇われていた。各クラス毎で経営している模擬店がずらりと並んでいた。模擬店をクラスが経営することに就ては学校当局は最初反対していた。が、自治委員の言い分がやっと通ったのである。日頃無能だと言われている自治委員も案外なところでその役割を発揮した。
豹一は寄宿舎のデコレーションを一度軽蔑して置くのもわるくないと思った。素直に見に行くと言えないのが彼の厄介な精神なのである。入口には破れ靴やボロ布や雑巾が頭と擦れる位の高さにぶら下げてあり、その一つの赤い布には「浜口雄幸氏三高時代愛用の褌」と御丁寧に木札がついていた。
(莫迦々々しい、何も浜口雄幸の褌まで担ぐ要はあるまい)
とくぐった途端、ガーンと銅鑼の音が鳴った。一人くぐる毎に、小使部屋で誰かが鳴らしているらしかった。
(流行らぬ寄席[#「寄席」は底本では「客席」]か化物屋敷じゃあるまいし……)そう心の中で呟いて、豹一は北寮、中寮、南寮の順に各部屋のデコレーションを見て廻った。南寮五番の部屋まで来ると、「虎退治」とデコレーションの題を書いたポスターが貼りつけてありながら、ドアが閉っていた。人々はドアがなかなかあかないので、これもデコレーションの機智の一つかというつまらなそうな顔をして立去って行った。実は「西田哲学」という題で、はいると「絶対無」と書いた紙片のほかになに一つなく、ガランとしていた部屋があったのである。豹一はドアをノックして、
「赤井! 赤井」と呼んで見た。
「誰だ?」赤井の声だった。
「僕だ、毛利だ」と言うと、ドアをあけてくれた。はいって見ると、赤井は裸の体にボール紙の鎧をつけ、兜を被って、如何にも虎退治らしい装立だった。竹藪が装置してあった。
「なんだ、君が虎を退治るのか。見せないのか?」
とあきれて訊くと、
「実はこれは僕の発案なんだ。実物の人間が立っているところが味噌なんだが、かわり番に立つことにして、いよいよ僕の番になって見ると、とてもこんな恰好で立てやしないんだ。が、発案した以上、立たぬ訳にはいかないじゃないか。それで立つことは立ったが、ドアを閉めて誰もはいれぬようにしてやったんだ。寒いよ。煙草あるか」
豹一は吹き出してしまった。こんな痩せてひょろひょろした虎退治があろうかと、朝からの不機嫌が消し飛んでしまった。煙草を渡すと赤井は、
「封を切ってないね」
豹一は幾らか恥しかった。ただなんとなく持っているだけで、吸う気になれなかったのである。照れかくしに、
「虎はどうした?」と言うと、
「デコが間に合わなかったんで、立っている人間がしばしばうおーッと唸る仕掛になっているんだ。妙なものを発案したもんだ」と苦が笑いをした。交替のものが来るまで動けないと言うので、豹一は、
「じゃ、また後で」
とそこを出た。寄宿舎を出ると、豹一は新築校舎の二階にある自分の教室へ行き、グラウンドに面した窓から仮装行列を見た。丁度豹一のクラスである文科一年甲組の仮装行列がはじまる前で、誰も教室にはいなかった。豹一は自分の仮装行列の提案に反対されたので、参加しなかったのだ。彼はクラスの者が仮装用の費用に出す一円ずつの金を集めれば五十円になる。その金でパンを買って、皆んなでグラウンドへ担いで行き、グラウンドを一周してから代表者がそのパンを養老院へ持って行って寄附することにすれば、下手な仮装よりもぴりッと利いて面白く有意義ではないだろうかと、半なにか偽善者のように思われやしないかと心配しながら、一人一件という義務通り提案したのである。反対されたのは構わなかったが、その時教授の息子である級長の根室が、京都人らしい陰険な眼を眼鏡の奥にぎょろりと光らせながら、ねちねちとした口調で、「毛利君の案は不穏当だと思う。毛利君は何か意味があってそんな提案をしたのか知らないが、そのためわれわれのクラスが学校当局からねらまれるようになったら、迷惑である」とかなり感情的な反対意見を述べたのが、癪にさわったからだった。
(ねらまれるとはなんだ! 俺を危険人物だと思ってやがる!)
根室の反対意見にかなり賛成の声が出て、何れも京都に家をもった生徒ばかりだった。結局仮装は「酋長の娘」という無意味な裸ダンスに決った。豹一は立って、不参加を表明した。赤井も、「裸ダンスの方が不穏当ではないか」と反対意見を述べて不参加と決ったのである。
窓の外を見ていると、教室へぬっと黒い顔を出した男があった。野崎だった。
「君、仮装に出ないの?」と豹一が言うと、野崎は眼鏡の奥で眼をパチパチさせて、
「俺は出えへんのや。練習せえへんかってん」と未だ大阪訛の抜け切らぬ口調で言って、黒い顔をちょっと赧くした。ああ、そうかと豹一は思い当った。野崎はひどく忘れっぽい男で、教室でもたびたび教科書を忘れ、隣の豹一の机へ自分の机を寄せて、「ちょっと見せてんか」とこれが三日に一度である。その都度、気の毒そうに、「君も大阪やろ? 大阪へ帰るんやったらわいの定期貸したるぜ」というのだった。彼は毎日大阪から通学していたのである。
「君はどうするんだ? 定期無しで……?」と訊くと、
「わいは京都で待ってるさかい、大阪へ着いたら直ぐ定期を速達で送ってくれたらええのや」
その間待っているつもりなのかと、豹一は野崎の底抜けのお人善しに驚いてしまった。彼が忘れるのは教科書だけでなく、例えば自然科学の時間などに、べつの合併教室へ移動するのを忘れ、ぽかんとひとり教室に坐っていることがよくある。独逸語の訳読をやらされるときなど、いきなり三頁位先の方を読み出して、皆んなを面くらわせることもある。ラグビー部へ一週間ほどはいっていたが、練習の時間を故意にすっぽかすと思われて、部を除名されたということだ。だから、仮装行列の練習時間もうっかり忘れたのであろうと、豹一は思ったのである。何れにしても、不参加者が一人増えたわけだと喜んでいると、野崎は、
「俺は色が黒いやろ。しゃから、色が黒くても南洋じゃ美人というあの歌がきらいやねん」と言い、顎をなでて、
「今日一ぺん化粧してこましたろ思て、髭剃ったんやけど、あとからなんぞつけるのん忘れたよって、ひりひりして痛いわ」と言うのだった。豹一はこんなことが平気で言える野崎がにわかに好きになった。その大阪弁も好きだった。自分がわざと標準語まがいの学生言葉を使っているのが恥しかった。なにか野崎の言葉を聴いていると、しょっちゅうなにかに苛立っている自分が恥しくなり、ふっと和かな空気の中に浸ってしまうのだった。
やがて、「酋長の娘」の仮装行列がはじまった。他愛のない踊だった。
「下手だなあ」と豹一が言うと、野崎は、
「そうや、下手やなあ」
「全部の中でいちばん下手だろう」
「そや、そや。いちばん下手や」
「酋長の娘」が済み、あと五つ六つの仮装行列があってから、寮生の嵐踊が行われた。百人ほどの寮生はいずれも赤い褌一つの裸で、鐘や金盥や太鼓をそれぞれ持っていた。群衆の垣を押しのけて、その行列がぞろぞろ寮から出て来るのを見た途端、豹一はわざとらしく眼をそむけた。彼等がいずれも見物の視線に芸もなくやに下って、蛮カラ振りの効果を見物の物珍しそうな眼つきで計算していると思ったからである。
(あの仮面のような笑い方はなんだ? 彼等は観衆の拍手が必要なのだ!)
ここでも豹一の批評は苛酷だった。しかも、豹一こそこれまで観衆の拍手を必要として来たのではないか。そういう自分には気がつかなかった。
――デカンショ、デカンショと半年暮す、ヨイヨイ……。
嵐踊がはじまったとき、赤井が教室へはいって来た。
「君は……?」出なかったのかと訊くと、
「風邪ひくとつまらんからね。それにこんな痩せた体をさらけ出せるか」と赤井は言った。
やがて、仮装行列が全部済み、教授の投票による成績が発表された。「酋長の娘」はビリから二番目の成績だった。ざまあ見ろと思った。
校長の閉会の挨拶がはじまった時は、校庭はもはや黄昏れていた。「紅燃ゆる」を歌って散会したあと、応援団長の推戴式があった。校庭に篝火をたき、夕闇の中で酒樽を抜いて、応援歌を呶鳴り、新しい応援団長は壇上に立つと、一高に負けるなと悲痛な演説をやって、心あるものは泣くのである。応援団委員は参加人数のかり集めに躍起となった。記念祭がすむと、生徒たちは興奮しながら町へあこがれ出て行く、その足を推戴式のため食い止めなければならない。近頃応援団というものに冷淡になった功利主義者や、事なかれ主義者が多くて困るのである。応援団委員の希望、そして足を食止め易いのは新入生たちであった。豹一、赤井、野崎の三人はまごまごしていたので、寄宿舎の横の小門で掴った。豹一の子供じみた頭や、むやみに上着の袖の長い如何にも新入生らしい服装をなめて掛かったのか、委員は、
「推戴式に出ないと、承知せんぞ!」と威喝した。豹一の自尊心にその命令的な態度が突き刺った。
「いやだ! 三高の伝統は自由だとあんた達が日頃言うじゃないか。出たくないものを無理に止める法はないだろう?」
実は最近豹一もかり出されて、野球の練習時間中、意味なく太鼓を敲かされたことがあって、応援団には愛想を尽かしていたのである。しかし、その言葉は上級生に対しては少し礼を失していた。
「生意気言うと撲るぞ!」
「撲れ!」
撲られた。撲った男がしげしげと鎰屋へ通うということをあとで知った時、豹一の眼は異様に輝いた。
間もなく豹一が鎰屋お駒と散歩しているという噂が立った。
六
豹一とお駒の散歩は、赤井に言わせると、飯事に過ぎなかった。つまり豹一は臆病なのだと、簡単に赤井は判断を下した。そんな赤井の肚がわかれば、豹一も改めてなにかの手段を取ったところかも知れぬが、それにしても豹一は余りに恋愛を知らな過ぎた。お駒の方はまだしも、私は一人娘でこの人も一人息子やわ、とこんなことを漠然と考えていた。ところが豹一は真似るべき恋愛のモデルを知らないのである。知っていれば、見栄坊の彼のことだから、そのモデルに従って颯爽と行動することは面白いと思ったかも知れない。それもしかし、彼の記憶の中に根強くはびこっている或る種の嫌悪は、彼が足を踏み外して取乱すことだけは食い止めたに違いないが。つまり彼は流行外れの男だったのである。どんな愚劣な人間でも大した情熱もなしに苦もなくやり遂げて見せることが、彼には出来なかったのだ。だから愛情にかられるということが必要であった。ところが彼は愛情の前で奇妙な困惑を感ずる男だった。人に愛された経験がないのである。自分は人に愛される覚えはないと思い込んでいるのである。
豹一は何のために散歩しているのかわからなかった。元来彼は何ごとにつけても、自尊心の満足ということ以外には意味をつけることは出来ず、お駒との散歩もむろんそこから出たものだったが、たいした効果はなかったのである。一緒に歩いているところを誰かに見て貰えば、それで自尊心が満足されると思っていたところ、見られたために却って自尊心が傷ついてしまった。
ある日、植物園を散歩していると、北園町から自転車で通学している桑部という同じクラスの者に見つけられた。豹一は瞬間緊張して、桑部の眼の色の中に効果を計算しようとした。ところが桑部は自転車の上から、ちらっとお駒と豹一を見並べて、にやりと薄笑いを泛べて通り過ぎてしまった。少しも羨望らしい表情はなかった。桑部は自転車に乗っていたから、案外軽い気持で、二人の顔が見られたのである。呼鈴を鳴らして走って行った桑部のうしろ姿を見て、豹一は桑部はたしかに俺を嘲笑したと思った。
(お駒の顔を見て、なんだあんな女という眼をしやがった!)
豹一はお駒の横顔をじろりと見た。そんな瞬間どんな女でも器量が下って見えるのである。お駒は美しい方だったが、鎰屋の二階で三高生にじろじろ見られている時ほどの美しさは、いま豹一には見えなかった。それにエプロンを外すと、お太鼓の帯も妙にぺったりして、模様の金魚もなにか貧弱だ。かんかんと照っている陽が鼻の横の白粉を脂にして浮かせていた。おまけにじっと豹一に横顔を瞶められたので、嬉しさの余り醜いまでにどぎまぎして赧くなっていた。豹一はお駒を醜いと思い込んでしまった。応援団員たちが熱中しているという肝腎のことは咄嗟に泛ばなかった。桑部の視線ばかりが気になっていたのである。それに彼は、はじめて赤井と鎰屋へ行った晩の、お駒の表情や仕草に良い印象をうけていなかったのだ。
(こんな醜い女と歩いているのが、どうやら俺らしいではないか!)
そう思うと、豹一は一ぺんにお駒と歩くのがいやになった。しかし、そういう散歩はずるずると夏休み前まで続いた。案外気の弱い男だったから、むげにお駒をしりぞけることが出来なかったのである。
二学期が来て、高等学校の生徒がそろそろ鎰屋へ顔を見せる頃になっても、豹一の姿だけが現れないとさすがに分ると、お駒はぽかんとしてしまった。自分の顔がだんだん醜い表情を取り出したので、あわてて化粧をしたりした。
(男というものは二月も会わないでいると、もうそのひとを忘れてしまうのだろうか?)こんなことを慰めみたいに考えた。が、豹一のことはなぜか恨む気持になれなかった。(あの人は前途ある高等学校の学生さんだもの、私らを相手にしないのは当り前だ)
妙なところで、豹一は三高であることが役立ったのである。豹一は二ヵ月の休暇を利用して、やっとお駒と離れてしまったということに、少し自責めいたものを感じていた。お駒を自尊心のだしに使ったということが、済まない気がしていた。豹一はただ、
(俺の様にあっさりと女と別れられる奴はいないだろう。皆んな未練たらしくめそめそしてやがる!)と周囲を見廻してみて、やっと心を慰めた。
例えば、赤井は此の半年間、一人の女に通い続けているではないか。そのため赤井は寮費を滞納して、寄宿舎を追い出され、鹿ヶ谷の下宿へ移ったが、下宿料が後払いだったのに油断して、家から送って来た金を全部その女に注ぎ込んでしまった。月末になって困っているのを見かねて、野崎が自分の授業料を滞納させて立て替えてやった。ところが野崎はそのことを機縁として大阪からの通学を止めて、赤井と同じ下宿に移った。おまけに気の良い野崎は赤井の誘いを断り切れず、ある夜赤井と一緒に宮川町で泊ってしまった。
「これが青春なんだ。汚いところに美しいものを見つけるのが本当の青春なんだ」赤井は良い加減な青春説を振りまわすと、野崎は納得したのかしないのか、気の弱そうな声で、
「うん、そや、青春やな」と黒い顔でうなずくのだった。赤井のむきになって喋っている言葉の意味がわからないのを、赤井に済まなく思っているらしかった。
野崎は赤井や豹一と一緒に四条通へ出ると、もう宮川町へ行かなければならぬと思い込んでいるらしかった。宮川町が見える「八尾政」へビールをのみにはいったりすると、もうそれは決定的なものになったという顔をするのである。そしてそのための資金を如何にして作るべきかをしきりに考えるのである。京都にある二軒の親戚からはもうこれ以上借りられないぐらい借金してしまった。質に置くものもない。そんな結論に到達すると、彼は赤井の青春のために済まなくなって来る。そしてまた、そのような青春に背中を向けて今夜も一人で帰って行くだろう豹一に対しても、何か済まない気がするのだ。「八尾政」を出ると、はじめて野崎はおずおずと口を切るのだった。
「赤井、金なんとかしようか?」
「うん、そうだな。しかし、べつに今夜は――」そう赤井が言うと、野崎はなにがなんだか分らなくなって来るのだ。赤井の青春説を改めて考え直すのだ。
「君さえ構へんかったら、なんとかするぜ」
「当あるのか?」
そう言われると、野崎ははじめて釈然として来て、嬉しそうな顔をするのだ。
「あるぜ」
「そうか。そんなら僕どこで待っていようか?」
「ヴィクターで待っててくれ」野崎はなにか責任の重さを痛感したような顔で、夜の町を金策に奔走するのだった。
ある日、野崎は突然行方不明になった。その前の晩野崎と赤井と一緒に宮川町で泊ったのだが、金無しで泊ったので、野崎は赤井を人質にして金策に出掛けた。が、何時間経っても赤井のところへ帰って来なかった。そこの家の女中が学校へ豹一を訪ねて来て、金をもって帰り、それでやっと赤井は人質から解放されたが、野崎はそれから三日も下宿へ帰って来なかった。二人で探して見たが、見当がつかなかった。三日目の朝、学校へ行くと、野崎がしょんぼり教室に坐っていた。授業が始まる前だったので、直ぐ呼び出して、近衛通の喫茶店へはいり、事情を訊いて見ると、こうだった。
赤井を人質に残して、出たものの、野崎には金策の当がなかった。三軒ある親戚も一方で借りた金を一方へ返し、そこでまた借りた金で一方へ返ししていたから、随分借金が嵩んでいた。五円返したその場で十円借りるというつもりのヤリ口も、その五円が手にはいらぬ限り不可能だった。下宿で借りるということも考えられたが、それも下宿代が二人分滞っている上に、まだいくらか現金を借りていたから、到底実行出来そうもなかった。おまけに昨夜外泊した顔をぬけぬけと出して借金も出来なかった。豹一なら持っているかも知れないと思ったが、行く前の顔はともかく、宮川町からの帰りの顔をどうして会わされようか。眼が充血し、黒い皮膚がいくらか蒼ざめて、ねっとりと脂の浮いている顔を、豹一の美しい顔の前へ出すのは恥じられた。質草もなかった。大阪まで京阪で帰って、家で貰って直ぐ引きかえして来ようかと思ったが、材木屋をしている父がこの頃糖尿病で臥込んでいることを想い出すと帰れなかった。ひょっとして父の痩せた顔を見て、いきなり日頃の行状を告白したくなったり、また母親から貰って便所で泣いたりしていると帰りが遅くなるやろと思った。当もなく京極を歩いて、誰か知った顔に会えへんやろかと眼をきょろつかせた。この前一銭の金を借りるために、京極を空しく三往復したことを想い出したりした。その時十四銭もっていたのだが、腹は空っているし、珈琲ものみたかった。結局「スター」の喫茶店で十五銭のホットケーキを食べれば、珈琲がついているから、一挙両得だと思ったのであるが、それには一銭足りない、誰か知った奴に会わないかと歩きまわったのである。「スター」の前を六度通ったが、そのたびに、陳列窓のなかにあるホットケーキの見本が眼にちらついてならなかった。三条の「リプトン」で十銭の珈琲を飲むか、うどんをたべるかどっちかにしようと自分に言い聴かせたが、どうにもホットケーキに未練が残った。ふわっと温いホットケーキの一切が口にはいる時のあの感触が唾気を催すほど、想い出されるのだ。蜜のついている奴や、バタのついている奴や、いろいろ口に入れたあとで、にがい珈琲をのんだら、どない良えやろかと、もう我慢出来なかった。顔を見知らぬ三高生が一人擦れ違ったので、済まんけど、一銭貸してくれへんかと頼むと、妙な顔をして、無いぞオと断られた。わいはなんでこないに金が無いのやろ、泣いてこましたろかと、半分泣きかけていたのであった。――会いたいときはなかなか知った顔に会わんもんやなと、その時のことを想い出していると、急にホットケーキが食べたくなった。京極の真中で、財布をあけて勘定してみたら三十銭あった。「スター」へはいってホットケーキを食べた。そこを出て、京極通を三条へ出て、河原町通を四条の方へ引きかえした。四条河原町の手前にある小路を左へ折れて、「ヴィクター」喫茶店へはいった。薄暗いいちばん奥のボックスに坐って、そこの八重ちゃんと呼ぶ女の顔をなんとなく見ていた。八重ちゃんはいつもエプロンの袖から白い腕をにゅっと出して、それが生々しく魅力があった。三人いる女のなかで、彼女がいちばん目立っていそいそと立ち働いているのは、つまりそれだけ綺麗だと自覚している証拠なんだと、赤井がいつか言っていたのを想い出した拍子に、赤井の痩せた、線の細い顔が泛んだ。早く金を持って行ってやらぬと、赤井のことやから、余計勘定が嵩むようなことになるやろと、丁度鳴り出したベエートーヴェンの第五交響楽を深刻な顔で聴いた。なにか気持が落ち着かなかったが、しかしそこを出ても金策の当はないと思うと、半分やけみたいな気持で、交響楽が全部済んでしまうまで、じっと坐っていた。出ると、もう財布の中には一銭もなかった。長崎屋の前を通ると、にわかにはいってカステラを食べたくなった。番茶を貰って、日当りの良い窓側で啜りながら、四条通をぼんやりながめていたら、良いやろなと思った。そのために要る十二銭の金が無いことが、嘘みたいに悲しく、腹立たしかった。再び京極を抜け、寺町通の古本屋を軒並み覗いて廻った。「京屋」という古本屋で、赤井が欲しがっていたコクトウの「雄※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)とアルルカン」を見つけ、記憶えて置こうと、値段など訊いた。いまここに十五円の金があれば、その本を赤井のところへ持って行ってやり、そして、一緒に「ヴィクター」へ行ってその本を見ながら、赤井の音楽論が聴かれるのやがと思った。御所の芝生へごろりと寝転んで改めて金をつくる方法を思案した。が、いつかうとうとと居眠りをした。わいはいま寝てる。昨夜の寝不足がたたって、えらい疲れて歯軋りして寝てる、そんなことを夢うつつに意識しながら、一時間ばかり眼をつむったり、人の跫音で眼を覚したりしていたが、いきなりこんな呑気なことをしてられへんと欠伸をして、立ち上った。芝生の露が紺ヘルのズボンを透して、べたっと尻にへばりつき、気持がわるかった。尻をぺたぺた敲きながら、御所を出ると、足は自然に学校の方へ向いた。丸太町の電車通りに添うて熊野神社まで来ると、大学の時計台が見えた。近衛町まで来ると、もう時計の文字がはっきり見え、既に午後一時過ぎだった。直き戻って来てやると赤井に言って来たのだが、もう三時間も経っていた。身を切られるような気がした。近衛通から吉田銀座へ折れて錦林通へ出る細いごたごたした小路へはいって行った。そこに馴染の質屋があった。古着屋のような構えで、入口の陳列窓にいつか入質て流した靴が陳列されていた。野崎はん、今日は何入質はるんどす?言われて考えてみたが、なかった。が、結局咄嗟に脱いだ毛糸のシャツと、帽子と万年筆と銀のメタルとで二円五十銭貸してくれた。思い掛けず金がはいったのですっかり嬉しくなり、近衛通から電車で四条河原町まで行き、長崎屋の二階へ上って、カステラを食べた。なお、紅茶を飲んだ、祇園石段下で電車を乗りかえる時に買ったチェリーの箱が空になるまで、ぽかんとして坐っていた。午後二時半になった。京極で活動を見た。出ると、午後五時だった。もうあたりは黄昏の色だった。赤井は首長くして待ってるやろな、怒っとれへんやろかと、ふとそのことを思い出すと、泣き出したくなった。が、お前ももう二十歳やないかと、固くいましめて、涙だけは流さなかった。そして、もう今となっては金を持って行っても手遅れや、赤井に会わす顔もあらへん、金をこしらえても仕様があらへんと、こんな気楽なことをしょんぼり考えて、僅に心を慰めた。しかし何かに追い立てられるような気持だけは、重くるしくいつまでも去らなかった。浮かぬ顔をして、夜の町を逍遙い歩いた。まさか鹿ヶ谷の下宿へ寝れまいと思ったのである。赤井を人質に残して置いて、自分ひとりだけ呑気に下宿へ帰って寝ていられようか。喫茶店へ二回、うどん屋へ二回はいり、そこら辺当もなく、逍遙い歩いている内にだんだん夜が更けて来た。人通りが少くなり、心細くなった。七条内浜まで暗い道をとぼとぼ歩いて行って、木賃宿の割部屋へ泊った。これが赤井の言うデカダンスやと思ってみたり、もうわいは救いようのないほど堕落したと思ってみたり、赤井の顔を想い泛べてみたり、なかなか寝つかれなかった。文字通り枕を濡らす想いで夜が明けた。そして木賃宿を出ると、また一日中野良犬のように町を歩きまわっていた。放浪者を気取っていたが、気取るまでもなく、妙に薄汚く浮浪者じみて来たと思った。相かわらず、ぞおっとする想いで赤井の顔が泛んで来た。ひょっとしたら、赤井は無銭遊興で拘引されているのと違うやろかと思うと、もうへとへとになるまで歩きまわるのが義務のようだった。おかげで、京都の町の地理を随分覚え込んだ。薄汚い路地裏で、びっくりするほど色の白い綺麗な女を見て、ああえらい良えもんを見た、これが今日一日のわいの幸福やと呟いたりした。夜が更けると、また木賃宿に帰った。その夜はぐっすり眠れた。そして夜があけると、また歩きまわっていたのである。そして、三日経ったが、金が一銭も無くなると、死にたいほどの気持になり、木賃宿を出た足でふらふらと学校へ来て、授業が始まる一時間前から、ひとりしょんぼり教室に坐っていたのだった。……
そんな詳しいことは分らなかったが、野崎が口下手に問われるまま返事した言葉から想像して、たぶんそんなことだろうと、見当がつくと赤井はもう言うべき言葉を知らなかった。心配しながら、且つぶりぶり怒りながら野崎を探し廻っていたことが阿呆らしく想い出された。
「君の放浪は実に君らしい青春だよ」と赤井は辛うじて青春説を口にしたが、しかし、肚の中では、
(つまりこいつは忘れっぽい、頼り無い男なんだ)と妙に諦めていた。
だが、豹一は何か底知れぬ野崎の魅力に触れた想いで、にわかに友情が温って来た。
(俺はしょっちゅう自尊心の坐りどころを探して、苛立っているが、野崎は珈琲一杯の中に胡座をかいてしまうことが出来る。何という違いだ! つまり俺の方がずっと浅ましい存在なんだ)
そう思うようになったのは、豹一としてはかなりの進歩だった。豹一は短距離選手のゴール前の醜悪な表情を自分の生き方と比較してみた。(実に同じく醜い緊張だ!)
彼はもう首席になる決心を断念した。ところが、実のところ、彼は今のままでは進級も危いような状態だったのである。
七
校門をはいって直ぐ右手にある賢徳館という古い建物のなかで、及落決定の教授会議がひらかれた。三月の初めで、京都では未だ厳しい寒さだった。ストーヴをたいてもガランとした部屋のなかはなかなか暖まらず、誰かが小用に立つたびに、身を切るような比叡おろしがさっと部屋の中を走った。老年の教授達はズボンに手を突っ込んだまま、せわしく足踏みしていた。例年より冷え方がひどく、ことしは明治何年以来の寒さだと言うことだった。どうやらストーヴに故障があるらしかった。そんな寒い部屋のなかで、殆んど朝から夕方まで坐りずめで、教授も容易な辛抱ではなかった。そのせいか、会議は実にあっけなく早いスピードで進行して行った。毎年、一人の生徒の及落を決めるために、まる半日潰れてしまうようなことがあった。が、ことしは一人の生徒に十分も手間どるようなことはなかった。いちいちその生徒の一生の運命まで考えていたら、きりの無いところである。毎年懐疑的な教授も今日は点数という極めて合理的な決定法に絶対の信用を置いた。
豹一、赤井、野崎の三人の及落決定も十分とは掛らなかった。三人一束に審議されて、簡単であった。欠席日数が三人とも規定を超過していると聴いて、さっさと小用に立った教授もあるくらいだった。おまけに、品行もわるく、成績不良だった。ことに、独逸語の成績がひどく悪かった。
「どうですな、Hさん」誰かが独逸語のH教授にそう訊いた。H教授が、「もう一年僕の講義を聴かしますかな」と言えば、もうそれきりなのである。
「いやあ、僕には意見がありませんよ。及落どちらでも結構ですな」H教授はそう言ってにやりと微笑った。
「三人とも落第ですな」
「ええ、三人とも――」H教授は嬉しそうにうなずいた。なにかしら満ち足りた気持だった。H教授は昨夜毛利豹一が自分を訪問して来たことをちらと想い出していたのである。
書斎に通すなり、
「君、用件は何だね?」
「はあ」豹一はさすがにもじもじしていた。その赧くなっている顔をH教授はちょっと可愛いと思った。独逸に留学していた時、こんな顔をした中学生がビールの飲み競べをやっていた。こいつは余り飲めそうにもない。姉の結婚式で二、三杯盞をなめて、ふらふらになって泣き出す手合だろう。
「僕は朝から算盤を手から離したことがないんで。点数の勘定で忙しいんだよ。用件を早く言ってくれ給え」
「はあ、その点数のことなんですが」
「点数のことは致し方ないよ、どうにもならないよ」
「なりませんか? そうですか」豹一は思わず立ち上りそうになった。人に頭を下げるのがいやなのである。が、さすがに、これは思い止った。実は、朝から赤井、野崎らと手わけして悪い点を取りそうな教授を訪問しているのである。赤井は日頃H教授に睨まれているし、野崎はひどく成績が悪そうだし、三人のなかでは比較的成績のましだと思われる豹一がH教授訪問の役に当ったのである。その役を果さぬうちはやはり帰れなかった。
「実は赤井と野崎のことなんですが、先生の独逸語の成績がひどく悪いらしいのです。――二学期はわりに良く出来たんですが、一学期の点が悪いんです。他の科目は注意点を免れましたが、先生の点だけが、――独逸語で落第しそうなんです。なんとか及第点にしてやっていただけないでしょうか」
考えていた言葉をやっとの想いで言って、H教授の顔を見上ると、H教授は薄気味わるく笑っていた。二学期の成績が良かったという豹一の言葉がおかしかったのである。二、三日前答案を採点していた時、H教授は三人の答案が一字一句違わないことを発見して、あきれてしまった。赤井と野崎が豹一の答案を写したに違いないと思った。三人の中では豹一がややましに出来るのだった。H教授は先ず豹一の点を零点にした。他の二人は一学期の点をそのままつけた。すると三人とも二学期を平均して落第点になった。豹一を零にしたのは、もし及落会議で問題になったら助け舟を出してやるつもりでいたからである。
H教授はくつくつとこみ上げて来るのを我慢しながら、
「赤井と野崎の点をあげてくれというわけだね?」
「はあ」
「君はどうなんだ?」
「僕は……」大丈夫だというその顔がH教授にたまらなくおかしかった。たまりかねて、下を向き、膝の上の成績を仔細に見る真似をして、
「ところが、君の方の点がわるい」わざと渋い声で言うと、
「えッ?」案の定驚いた顔をした。
「赤井は三十八点、野崎は三十七点、君は三十六点だ。君がいちばん悪い」
そう言ってやると、すごすごと帰って行ったそのことを、H教授は想い出したのである。手土産に三人の名前がはいっているのもおかしかった。H教授は三人の仲の良さにちょっと微笑ましいものを感じた。及第させるならば、三人とも及第させてやりたい、一人だけ欠けると可哀相だという気持だった。豹一が自分の点で落第しそうだったら助け舟を出して他の二人と一緒に及第させてやるか、それとも三人を落第させてやるか、どちらかだと思っていた。が、欠席日数超過で三人とも落第と決ったので、なにか満ち足りた気持がしたのである。
「毛利は出来る科目もあるが、彼は秀英塾だね」と誰かが言った。秀英塾の生徒は皆秀才だということになっていた。
「余っぽど、怠けたのだね、毛利は」誰かが答えた。
「すると、三人とも落第――?」
「異議なし」
秀英塾では落第すると給費を中止するという規定を教授達はみな知っていた。が、誰も想い出さなかった。そうして三人の落第は簡単に決定した。
教員室の壁に小さく貼出された紙を見て、落第だとわかると三人は赤井の発言で早速受持の教授を訪問することにした。下鴨にある教授の家の玄関で待っていると、教授が和服のまま出て来て、突っ立ったまま、
「どうもお気の毒だが、決ってしまったものは致方ない。僕も頑張るだけは頑張ってみたのだが、欠席日数があれではね」その癖その教授は彼等の落第を主張した一人だった。受持の教授が自分のクラスの生徒の落第を主張するのはおかしいと、眉をひそめた教授もあったくらいである。
玄関での立ち話では、三人とも頼むべきこともろくに頼めなかった。阿呆らしい気持で早々に辞すと、足は自然に京極の方を向いた。途々、赤井はひとりで興奮していた。豹一はわりに平静な気持だった。落第と決れば秀英塾から追放されることは免れ得なかった。もう三高生活もこれでおさらばだと、彼ははじめから受持の教授を訪問する気持もなかったのであった。野崎はおかしい程悄気ていた。まるで泣き出さんばかりの顔をしていた。
そんな野崎の気持は赤井や豹一にははっきりわかっていた。今度の落第は野崎に原因していると、言えば言えないこともなかった。野崎は三人の欠席日数をノートにつけていたのである。誰も野崎の計算を信じていた。だから野崎がもうあと三日休めるぞと言ったので、うかうか三日休むことにした。ところが、野崎の計算の間違いだとわかった。丁度その三日間だけ超過してしまったのである。そのほかに未だこんなこともあった。
第一日目の試験が済むと、彼等は例によって京極へ出て、三条通の「リプトン」で翌日の試験の秘策を練った。その日の試験は独逸語で、これは豹一の答案を写して、どうにか落第点を免れたので、紅茶の味はうまかった。レモンの香が冬の日らしい匂いをぷんと漂わせて、彼等の寝不足の眼をうっとりと細めた。が、翌日の試験は歴史である。彼等は誰もノートを持っていなかった。勉強しようにも方法がなかった。歴史の教授は及落会議でも相当辛辣だということを赤井が言い出したので、三人とも憂欝になり、紅茶を三杯ものんだ。ところが野崎が同じ中学校出身の先輩に去年のノートを借りる手があると、良い智慧を出したので、もう歴史の試験は半分終ったのも同然だと、彼等は松竹座で映画を見た。松竹座を出ると、野崎はノートを借りに行くことになった。未だそこら辺をぶらぶらしていることに未練のある赤井は時間を打ち合せて、野崎と「ヴィクター」で落ち合い、一緒に下宿へ帰ることにし、豹一は一足先に帰り、良い頃を見計って、赤井の下宿で火をおこしながら待つ。そう決めて別れた。
豹一は約束の時間より早く赤井の下宿へ出掛けて、しきりに火鉢へ新聞紙をくべていたが、炭は少しも赤くならなかった。部屋の中がさむざむとして、煙が恥しいぐらい立ちこめた。下宿の人に言って、火種を貰うなど、出来ぬ質だった。新聞紙もくべ尽してしまい、何という俺は不器用な男だと、げっそりした。ふと、煙草の吸口がよいと思い、くべてみると、蝋があるのでよく燃えた。そこをすかさず、しきりに火鉢の中へ顔を突っ込んで吹いていると、漸くおこって来た。ちょっと一時間ほど掛ったのである。が、二人はなかなか帰って来なかった。浮かぬ顔をして火鉢に凭れながら無気力に待っていると、浅ましい気持になった。
二時間ほど経ってやっと足音がしたかと思うと、赤井は真赤な顔をして帰って来た。
「君ひとりか?」と訊くと、赤井は酒くさい息をはきながら、「野崎の奴いくら待っても来ないんだ。一時間以上も待たされた。いつもの伝だと思ったから、諦めて京極で酒を飲んで帰って来たんだ」
試験中でなにか殺気立っているだけに、赤井は常になくぶりぶり怒っていた。ノートが無いから、勉強の仕様もなく、二人で無駄話をしていた。だんだん夜が更けて来たが、野崎が帰って来ないのでもう明日の試験は諦めようと、興奮しながら言い合っているところへ、野崎がノートを持ってしょんぼり帰って来た。もう十時過ぎていた。
「なんや、赤井、君帰ってたんか?」妙な顔をしてそう言う野崎に二人はあきれてしまった。
訊いてみると、案の定、野崎はうっかりして約束の時間を間違えたのだった。赤井が出たあとへはいって行って、赤井はえらい遅いなと思いながら、一時間半も待っていたとのことである。一足先に帰るということも考えたが、赤井があとから来ては困ると思ったのと、一つには寒い夜道をひとりで鹿ヶ谷まで帰るのが淋しかったので、いつまでも待っていたのである。
「馬鹿だなあ。僕が来たか来なかったか、八重ちゃんに訊けば分るだろう」
赤井はぷりぷりした。八重ちゃんが自分の来たことを野崎に言わなかったことで、なにか自尊心を傷つけられた気持もあった。が、実は野崎は殆んど毎日のように赤井と通いながら、八重ちゃんにその存在を認めて貰えぬほど、かすんでいたのである。
いよいよノートを拡げたが、野崎のために四時間も無駄にしたかと思うと、阿呆らしくて気乗りがしなかった。
「野崎、そう悄気るなよ」と、豹一が慰めたが、野崎は虚ろな表情で、しきりに責任感に悩まされていた。そんな野崎の気持がほかの二人にも乗り移って、結局わざわざ疏水伝いに銀閣寺の停留所附近まで出掛けて、珈琲をのんだりし、ろくに勉強も出来なかった。豹一は諦めて、先に秀英塾へ帰ってしまった。野崎と赤井は出町まで足をのばして、徹夜に備えるのだと珈琲を何杯ものんだ。下宿へ帰っても、無駄話ばかりで、なんのための徹夜かわからぬありさまだった。そのため歴史の試験は散々だった。おまけにそれに気をくさらして、あとの試験も上出来とは言えなかったのである。
だから今度の落第はかえすがえす野崎に原因していると言えば言えたのだ。が、それを自覚してすっかり気をくさらしている野崎を見ると、二人はそれには触れなかった。
京極へ出ると、先ず「リプトン」へはいった。それから「ヴィクター」へはいった。出ると、長崎屋の二階へあがった。豹一はそのたびに、もはやここも見収めかと、さすがにしみじみとなつかしい眼で、部屋の中を見廻した。意味もなく、京極通りを歩きまわり、疲れると、さてこれからどうしようと、町角でぽかんと、突っ立っていたりした。行きつけの店を一廻り廻ってしまうと、すっかり気がぬけたようになって、行先を思案するために突立っている彼等の顔は、どれも間が抜けて、憂欝そうだった。映画館へ行くにしても、どこの演し物も面白くなさそうだと、一つ一つあげてつまらなくこきおろしていた。結局もう一度「ヴィクター」へ行こうと赤井が浅ましく言い出すと、なんとなくそう決って、ぞろぞろと四条河原町の小路をはいって行った。
「一日に二度もちょっと体裁が悪いな」
八重ちゃんに気がある赤井が拘泥って言うと、
「そやな、体裁が悪いな。一日に二度も」野崎は元気のない声で言った。彼は「ヴィクター」で一番醜い、男か女かわからぬような顔をしている女の子に参っていると、日頃否定もしなかった。そう言えば「リプトン」のカウンターにいる化物みたいに脊の高い女の子にも、野崎は「肩入れしてる」らしかった。「ヴィクター」を出ると、だから「リプトン」へもう一度行った。そうして、時間を潰しているうちに、日が暮れた。半時間ほど思案した挙句、京極裏の牛肉屋ですき焼きをした。豹一ははじめて、
「僕はもう三高を止す」と言い、理由を訊かれたので、落第すれば秀英塾では給費を断る規定になっているのだと、説明した。
「もう君達にも会われないな」そう言った拍子に、急に眼の裏が熱くなって来た。結局何の意味もない三高生活だったが、赤井と野崎を知ったことがせめてもだと、さっきからそのことばかり考えていたのだった。
「止めなくても良いと思うがな」と赤井は言って、暫く深刻な顔をして考え込んでいたが、ふと顔をあげて、
「名案があるぞ、共済会へ頼んで家庭教師の口を見つけて貰うんだ。そうして野崎と僕の部屋で三人一緒に下宿したら、下宿代は助かる。ねえ、そうしろ、そうしろ」
「そや、そや。家庭教師がええ。三人一緒に下宿したら面白いやないか」野崎も言った。豹一は嬉しかった。自分の貧乏がこうして話題になっていることも、不思議に、恥しく思えなかった。しかし、三高を止す決心は変らなかった。
豹一の三高を止める決心が容易に翻らないと分ると、赤井と野崎はしんみりと酒をのんだ。そして、酔が廻って来ると、彼等がもうあと三年いるべき学校を、口を極めて罵倒した。もうこれがお別れだと、三人は夜が更けるまで京都の町を歩きまわった。その挙句、赤井と野崎は宮川町へ行くことになり、豹一は南座の横の暗い道を折れて、二人を送って行った。真白く化粧した女がぞろりと派手な着物を着て坐っている家の前で、豹一は二人と別れた。女の眼が無気力な笑いを泛べてじろりとこちらを向いた。豹一は南座の前から電車に乗って秀英塾へ帰った。
豹一はその夜のうちに荷物を纒めて朝運送屋へ頼み、午頃「ヴィクター」で赤井と、野崎の二人と落合った。そして、二人に見送られて、四条大橋から京阪電車に乗って、大阪へ帰った。
第三章
一
豹一が学校を止めたと聞いて、
「やめんでもええのに、しゃけど、お前がやめよう思うんやったら、そないしたらええ」と、お君は依然としてお君だったが、しかし、暫く見ないうちに、お君はめっきりやつれていた。眼のまわりが目立って黝んでいた。
未だ三十六だったが、眼のまわりの皺は四十を越えていた。髪の毛は油気もなく、バサバサと乾いていた。仕立物の賃仕事に追われていたのだと、豹一は見るなり思い掛けず涙が落ちた。昨日までうかうかと高等学校の生徒であったことが、われながら不思議なくらいだった。呑気に赤井や野崎と遊び廻っていたことなど遠い昔のようだった。想い出されもしなかった。想い出せば、母親に済まない気持になるところだった。高等学校を止めたということが極く当然のことだったと、今はその気持がすっかり身についてしまった。
高等学校の学資は秀英塾から出ていたから、もう母親は針仕事の必要もないと豹一は思っていたが、そう言う訳には行かなかったのだ。豹一に小遣を送ってやるためだけではない。豹一が中学校へはいった時に、お君は安二郎から金を借りた。借りただけの額は全部渡してしまった筈だのに、安二郎は、
「わいの計算では未だ三百円残ってる。これでもお前のことやから大分利子をまけたってるねんぜ」そしてお君の貰う仕立物の賃をまきあげるのだった。お君は豹一に送るために貯めている金を隠すのに苦労した。
そんな事情がわかると、豹一は、なんと言う夫婦だ、これでも夫婦といえるかと、もう少しで安二郎と別れてしまうように母親を説き伏せるところだった。母親は不平らしい愚痴一つ言わず、「あてはどうでもよろしおま」と言う顔をしているのが、一層あわれだった。しかし、母親と一緒に飛び出して、食べて行ける当もなかった。豹一は毎朝新聞がはいると、飛びついて就職案内欄を見た。質札を売りに来る客と応待する合間を盗んで、履歴書を書いた。楷書の字が拙かったので、一通書くのに十枚も反古が出来た。十通ばかり書いたが、面会の通知は一通も来なかった。履歴書を返送して来る方は良い方で、たいていは何の返事もなかった。十八歳までの半生が踏みにじられたような情けない気持になった。自尊心を傷つけられたと腹を立てるよりも、自分は就職など出来る人間ではないのだと自信のない気持でしょんぼり気が滅入った。店の間のテーブルに肘をついて、野瀬商会と白ぬきの文字のはいった暖簾を見ながら、欠伸をかみ殺して客を待っていると、そうして高利貸の手代みたいになっていることがいかにも自分に似つかわしいように思われる。それがたまらなくいやだった。返送されて来た履歴書を書き直す元気もなく、手垢のついたまま別のところへ送る時は、さすがに浅ましい気持になった。
ある日、製薬会社が広告文案係を求めているのを見て、広告文案など作れそうにもなかったが、とにかく三つばかり文案を作って履歴書と一緒に送ったところ、一週間ほど経って面会の通知が来た。文案がパスしたと思うと嬉しくて、俺に文才があるのだろうかと、ふと赤井が三高の「嶽水会雑誌」へ小説を投稿して没にされたことを想い出したりした。ひょっとしたら面会の時の口答試問ではねられるかも知れないと心配もするなど、豹一はそわそわと落ち着かなかった。
面会の日、朝早くから起きて朝飯もろくろく食わずに玉造にある製薬会社へ駆けつけてみると、所定の時間には未だ一時間あった。半時間も早く出頭するのは癪だとふと思ったから、門からひきかえして近所の五銭喫茶店へはいって、演芸画報を見たり、新聞の就職案内欄を写したりして時間を潰し、きっちり午前九時に、受付へ出頭して葉書を見せると、可愛い少女の給仕に二階の粗末な応接間へ連れて行かれた。給仕が出て行ったあと、直ぐむやみに髪の毛の長い男がはいって来て、不安そうな眼をしょぼつかせて椅子に腰掛けると、
「あんたも応募でっか」と訊いた。
「はあ」と曖昧に返事していると、
「面会の通知来たんはあんたと僕と二人だけでっか」
豹一が返事しないので、
「ほかにも応接間あるよって、未だほかに待たされとる奴がいまっしゃろな。なんしょ、ここは大けな建物やさかいな。――何人ぐらい採りよるかな」馴々しい口調だった。
「さあ、何人ぐらいでしょうな、五、六人、それとも――。数名採用とありましたね」豹一は思わずそんな返事をしていた。
「いくら呉れまっしゃろな? 六十円、それぐらいは貰わな食ていかれへんがな」
「そうですね。六十円ぐらいでしょうね」豹一はそんな無気力な返事をしている自分が情けなかった。
「ほんま言うたら、六十円でもやって行かれしまへんネん。子供が二人も居よりまんネん。きょう日物が高おまっさかいな」
「二人もね」
「ええ、二人もいよりまんネ。もう直き三人ですわ。さっぱりわやです。しかし、ここの会社アはえらい家族主義や言いまっさかい、まさか社員が食て行かれんようなことはしまへんやろ。その代り、よう働かしよりまっしゃろな」
「はあ、家族主義ですか?」豹一は自分の返事が野崎に似ていると思い、さすがに苦笑した。長髪の男はぺらぺらと喋り続けながら、神経質に膝をふるわせているのだった。不安な気持を誤魔化すためにこんなに喋っているのだなとふと思った。
気の抜けた空虚な表情で、ぽかんと呼出しを待っていたが、誰も部屋へ来なかった。
「えらい待たしよりまんな」
長髪の男がぼやいたので、豹一ははじめて、活気づいた。
(こんなに待たされるというのはお前らしい運命だぞ!)
何に向ってか分らぬそんな敵愾心めいたものが出て来て、眠気が消えてしまった。しかも、未だそれより一時間も待たされたので、豹一はすっかり腹を立ててしまった。呼びに来た少女の給仕が豹一の表情を見てびっくりした程であった。
(こんなに腹を立てていては、口頭試問の成績は悪いに決っている)さすがに自分にもそう言い聴かせるぐらいだった。
「お先に」
長髪の男へそう挨拶して、少女のあとに随いて廊下へ出た。廊下の突き当りの部屋へはいると、七、八人の試験官の眼がいっせいにじろりと来た。
(おおぜい居やがる)ぱっと眼の前が燃えてもう少しでお辞儀をするのを忘れるところだった。周章てて頭を下げ、二、三歩進んだ拍子に椅子に打っ突かってしまった。
(俺らしい失敗だ)と、もう自分にも腹を立てて、どすんと音を立てて腰掛けた。醜いまでに真赤になっていることが意識された。それが情けなくて、むっとした顔を上げた。その顔を見た途端に一人の試験官は「不採用」とメモに印をつけた。
「なぜ和服を着て来たんですか?」豹一の着流し姿を咎めて、一人が訊いた。椅子へ足の爪先を打っ突けたときの痛みが消えていなかったので、豹一は顔をしかめながら、
「洋服が無かったからです」と答え、(着流しはおもしろくなかったかな?)と思った。
「高等学校の制服はあるでしょうね」
「はあ、しかし、もう学生じゃありませんから」
「なぜ退学したのですか?」
「つまらなかったからです」
「赤じゃなかったんですか?」
「いや、落第したんです」
「理由は?」
「怠けたからです」もはや試験官の誰もが豹一の不採用を疑わなかった。広告文の出来が良くても、中学校から三高へはいった秀才でも、小さな会社ならいざしらず、うちのような大会社ではこういう男は困るのだ。しかし試験官よりも前に、もう豹一は不採用を覚悟していた。
「御苦労でした。結果は追って通知しますから」
丁度正午のサイレンが鳴っていた。三時間待たされたわけだと、豹一は思った。ひどく物腰の鄭重な男に見送られて、廊下を歩きながら、豹一はあの長髪の男はたぶん昼食の時間の済むまでもう一時間待たされるだろうと思った。
一週間経つと、不採用の通知が来た。その会社で発売している薬の見本袋が封筒の中にはいっていた。なるほど家族主義だなと思いながら、豹一はそれをごみ箱へ捨ててしまい、また履歴書を書いた。翌日の新聞に、その会社の広告文案募集の広告が出ていた。
二
豹一が就職を焦っているのを見て、お君は、
「なにもお前が働かんでもええ」と言ったが、そう言われると豹一は一層焦った。毎朝新聞がはいる音で眼が覚めた。寝床のなかへ持ってはいって眼を皿のようにして、就職案内欄を見た。適当と思われる募集が出ていると、もうそわそわして寝つかれなかった。就職とはこんなに困難なものかと、なにか慄然とする想いだった。
ある日、「調査係募集。学歴年齢ヲ問ワズ。活動的人物ヲ求ム。某財閥直営会社。本日午前十時中央公会堂二階別室ニテ面会ス」という広告を見て、中之島の中央公会堂へ出掛けたところ、調査係とは体の良い口調で、実は生命保険の勧誘員のことだった。しかし、ここでも年齢が若すぎるという理由で断られた。
「せめてもう一つ位年が行っていたらな。来年もう一ぺん来とくなはれ、なんとかしまっさかい」と、代理店長らしい男に言われた。
(俺が来年まで就職出来ないと決めていやがる)
と豹一は腹を立てたが、しかしふと、一年や二年は失業したままでいる人間がざらにあるのだと思うと、そんな言葉もあるいは有難く聴くべきところかも知れないと、ひどく元気のない歩き方で薄暗い公会堂の階段を降りた。
帰りの電車は立てこみ、乱暴に踏みつけられた。その拍子に、(俺は生命保険の勧誘員にも成れないんだ)としょんぼり頭に泛んで、腹を立てる元気もなく、片一方の足で踏まれた足をこそこそと撫でていた。が、帰ると、日本畳新聞社から記者採用の通知が来ていた。
翌日、勝山通の日本畳新聞社へ出掛けた。電車の中で「採用致し度く、ついては一応御面談の儀もあり――」と薄い青色のインクで走り書きしたハガキを何度もふところから取出してみた。本当に採用かどうかと不安な気持で、空いた席がありながら、ずっと立ったままだった。勝山通四丁目で降りて、新開地らしく雑然と小売店や鉱業事務所が両側に並んでいるコンクリートの道を勝山通八丁目の生野女学校の傍まで行ったが、それらしい会社は見つからなかった。番地もとびとびだった。ひきかえして、省線のガード下を折れて行くと、薄汚いしもた屋の軒に「日本畳新聞社」と小さな看板が出ていた。格子窓の上に掛っている日覆にもその字があった。
戸をあけると、三和土の右側に四畳半位の板の間があり、机と椅子が二つ窓側に並び、そのうしろに帳簿棚が、その前にも机と椅子があった。それで辛うじてその板の間の部屋が事務所らしい体裁を備えていた。三和土のうしろに格子戸があり、台所が隙間から見えた。板の間から一段あがって、奥の座敷があるらしかった。
案内を請うと、奥からでっぷり肥えた四十位の女が出て来た。片一方の眼がぎらぎら光って、じっと横の方を凝視していた。義眼らしかった。葉書を見せると、板の間の椅子へ坐らせて、女は押入の戸をあけて、そこについている二階への階段をばたばたと上って行った。かと思うと直ぐ降りて来て、
「どうぞお二階へお上りやしとくれやす」と言った。スリッパを脱ごうとすると、
「どうぞそのままで。だいじおへんどっせ」京都訛で言った。二階へ上ると、窓側の机の前にあぐらをかいて、浴衣掛けのまま、ペンを走らせていた男が振り向いて、ガラスペンを耳の横へ挟むと、
「さあ、こっちへ来とくなはれ」と畳の上に置いてある籐椅子をすすめた。小柄な上にひどく痩せて、顔色のわるい、六十近い貧弱な男だった。口髭を生やしているために、一層貧相に見えた。浴衣をはだけた胸は皺だらけで、静脈が目立っていた。
「僕が社長です」そう言って、籐椅子へちょこんと坐り、きょときょとした眼で豹一を見た。が、直ぐ自分から視線を外らしてしまった。
「お忙しいところを――」と豹一が言うと、
「いやもう忙しゅうて困っとりまんねん。なんしょ年が、年でっさかいな。ちょっと書き物すると、脳がのぼせてくらくらしまんねん。社員が二人いましたやが、一人は病気でやめましてん。もう一人はもううちに十年ほど居てくれてる社員でっけどな、今営業のことで出張してまんねん、編輯は僕一人でやって来ましたんやが、もうこら誰ぞに半分助けて貰わな仕様ない、こない思てあんたに頼むことになったんでんねん、どないだ? やって呉れはりまっか?」それで採用と決ったのも同然だった。
「僕に出来ることでしたら」
「いや。あんたやったら文句無しに出来ますわ。三高を途中でやめはったそうでんな。惜しいこっちゃ。兵役は? ああ、なるほど、未だ十八、さよか」
勤務時間は午前九時から午後五時まで、月給は四十二円、賞与は年末に一回、月給の十割乃至十二割と決めたあと、社長は日本畳新聞社の業績に就いて喋ったが豹一はろくろく聴いていなかった。
翌日九時に出社すると、いきなり郵送用の帯封へ宛名を書かされた。正午まで打っ続けに三時間書いた。購読者だけでなく、宣伝用に無料で送附する同業者の宛名も書くので、なかなか捗らなかった。一々……畳店と畳の字を入れなければならぬのだが、畳という字が画が多くてやり切れなかった。六号活字でぎっしりと詰めて印刷してある同業者名簿をながめて、しきりに溜息をつき、また柱時計を何度も見上げた。正午のサイレンが鳴るまで、四百枚書いた。
最初決めていた枚数より少し多かったので、ちょっと気持よかったが、直ぐ無意味な快感だと、馬鹿らしい気持になった。
「お昼飯にしとおくれやんす」
奥座敷から妻君の声がしたので、豹一はほっとして表へ出た。勝山通八丁目まで行って、飯屋で労働者にまじって十二銭の昼食をたべたあと、喫茶店の長椅子の上で死んだようになって横たわっていた。一時になると、帰って再び帯封を書き出した。西日が射し込んで来て、じっとりと額に汗がにじんだ。右の手がまるで自分のものとも思えぬ程痛んだ。中指に桃色のペンだこが出来たのを、情けない気持で見ながら、年中帯封を書かされるのなら、やり切れぬなと思った。
(働くとはこんなに辛いものか)とすっかり驚いた気持で、しきりに無味乾燥なその仕事を続けていると、三時が来て、社長の妻君がお茶をいれてくれた。貪るように啜っていると、社長が褌一つの裸で二階から降りて来て、
「こない日が射し込んで来よったら、毛利君かなわんやろ。もう直き簾をはりこむぜ。――どないや、帯封何枚ぐらい書けた?」
「六百枚位でしょう」
「そら早い。商売人なみや」
褒められたと思ったので、「帯封書きはえらいですね」と、微笑しながらお愛想にそう言うと、
「明日からほかの仕事してもらうぜ。月給はろて帯封書いて貰てたらうちの損や。商売人に頼んだら千枚なんぼで安う書いてくれよるネやから」
豹一はむっとしたが、同時に助かったという気持もした。その日一日中帯封を書いて、五時過ぎ、台所で手を洗って、「そんなら、帰らせていただきます」くたくたになって帰った。
翌朝眼を覚した時、今日も一日働くのかと思うと、怖いような気持がした。寝床の上にぼんやりと坐ったまま、なぜか紀代子や鎰屋のお駒の顔を想い泛べた。九時きっちりに出社すると、帳簿の整理をやらされた。振替郵便が来ると、入金簿へ金額、氏名、名目を記載し、もし購読料ならば購読者名簿へ購読年月日を記載し、広告掲載料ならば別の名簿へその旨書きいれる。単行本註文ならば、小包をつくり、猫間川の郵便局へ持参する。購読料が切れていると、あらかじめ印刷した催促のハガキを出す。そのたびに催促名簿へ年月日と氏名を記入し、その返事の有無をも書き込む。べつに郵便切手名簿へも「一銭五厘切手一枚、催促ハガキ用」等と書き込み、なお支出簿へも、「一銭五厘催促用支出」と記入するなど、一つの用件にたいてい三つか四つの帳簿に記入する必要があり、またその都度いろいろな印を印台から取出さねばならず、間誤ついた。
五厘切手使うのにも、まるで官庁のように、いろいろな帳簿に記入するので、社長の吝嗇な性格がひとごとならず、情けなく思われた。何かの時に支出簿を繰っていると、社員月給支払の文字が見えたので、注意して調べてみると、三年間に三円しか昇給していなかった。豹一はなぜか顔が赧くなった。その日の午後、ハガキに間違って三銭切手を貼ったところ、社長が見つけて、「もったいないことしいなや」と、きびしく注意した。周章ててはがそうとすると、「無茶したらあかんぜ」ハガキをもったまま、台所へ行き金盥の水の中に浸して、切手をはがして戻って来ると、「気イつけてくれんとあかんぜ。切手はこないしてめくるのやぜ」と、言った。豹一は暫く顔をあげることが出来なかった。
一週間経ったある朝、豹一が出社して間もなく、白い縮のシャツの上へ薬剤師や医者の着る白い診療服のようなものを羽織った男が、自転車を押してはいって来て、柱時計を見上げ、
「あ、五分遅刻したぞ。この時計遅れてるのんと違うか」そう言いながら、豹一のうしろの机の埃をぷっと吹いて、「僕、営業主任の園井です。よろしく」と豹一に挨拶した。豹一は周章てて振り向きぺこんと頭を下げた。「出張してましてん。昨夜帰って来ましてん」
園井は未だ三十を余り出ていないのに、半分頭がはげていた。玉子型の顔がてかてかと光って、口髭を小さく生やしていた。社長一人、社員二人の会社で、わざわざ主任だと言いたそうなところが、そんな顔に備っていると思ったが、豹一はべつにおかしいとも思わず、固い表情で、
「暑くて大変だったでしょう」われながら卑屈だと思った。
「いや、暑いの、暑くないのって、ほんまにやり切れんかった」鼻を抜ける声で言って、眼鏡を突き上げると、「さあ、馬力を掛けて行こか。えらい仕事溜ってしもた。忙しゅうてどもならん」ガチャガチャ机の抽斗をあけたり、帳簿をくったりして、いかにも忙しそうな物音を立てていた。
「毛利君、ここへ切手貼ってんか」そう言って園井が出したハガキを見ると、小さな楷書の字でぎっしり詰めて書いてあった。それがいかにも律義者めいて、よくもこんなに根気よく丁寧に書けるものだと、豹一は感心してしまった。豹一は園井がもう十年もここで働いていることや、三年に三円しか昇給しなかったことを想い出した。
園井は正午まで煙草一つ吸わず、帳簿の整理をしたり、集金郵便の予告状を書いたりして、打っ続けに働き、正午のサイレンが鳴ると、自転車に乗って近所にある自宅へ昼食をたべに行ったが、豹一が喫茶店から帰って見ると、もう物差を出して、しきりに広告欄の大組みをしていた。
そんな園井の視線を背中に感じていると、豹一はうかうか怠けるわけに行かなかった。じーんと時間の歩みが止ったような蒸暑さで、新聞をひろげて切抜記事を探していると、うつらうつらするのだった。そんな時は、いつか新聞の家庭欄などを見るともなく見ているのだが、ふと何やら園井の気配を感ずると、周章てて新聞をパラパラめくって、なんとなく鋏を取り上げたりした。ふと振り向くと、園井は物差の横ににじんだインクをせっせと吸取紙で拭っているなど、園井の勤務振りは一分の隙もなかった。
社長は二階で裸になってせっせっと記事を書いているし、妻君は奥の座敷で針仕事をしながら、居眠りをしたり、煙草を吸いながら虚ろな眼でじっと膝の上の猫を見たりしているし、結局誰も見ているわけでないのに、なぜ園井はこんなに真剣になって仕事をするのかと、豹一は驚いてしまった。
社長と園井が印刷所へ出張校正に行った留守中、豹一が帯封を書いていると、妻君が奥から出て来て、
「毛利はん。済んまへんけど、あんた、一つ手紙書いてくれはれしまへんどっしゃろか」と豹一に手紙の代筆を頼んだ。大津の料理屋で働いている彼女の友達から、近況問合せの手紙が来た、その返事を書いてくれと、彼女は言い、
「どんな風に書きましょう」豹一が訊くと、
「わてのこのお腹のなかにたまってる、いやや、いやや、思う気持を一ぺん正直に書いてほしいんどっせ」そして、彼女はこまごまと、「身の上話」をはじめた。
彼女は大津の料理屋で仲居をしていたが、一昨年社長の先妻が死んだ後釜にはいった。むろん浮いた仲ではない。仲人の口利きで、ちゃんとした見合結婚だったが、二十以上も年の違う社長と結婚する気になったのは、仲人の口で、社長が十年新聞を経営している間に五、六万の金をため、おまけに子供がないという点に心を惹かれたからだった。社長はもう六十過ぎているから、老先は短い。してみると、遺産の転り込むのも早いことだと慾を出して、来てみると、社長は未だピンピンしてけちくさく、嫉妬深い。それは我慢出来るとしても、どうにも我慢出来ないのは、結婚したのに籍をいれてくれず、おまけに園井の薦めで跡取に十二の子を養子に貰ったことだ。その養子はこともあろうに、園井の甥で、いずれ社長が死んだ暁は遺産は全部養子のものになり、後見者の園井が自由にしてしまうに違いない。
「わてらには一文も転り込んで来えしまへんのどっせ。そらまあ、よろしおすけど、未だに市場行きの金かてわてに自由にさせてくれはらしまへんのどっせ。それに、あんた――」妻君は義眼でない方の眼をふっと細めて、「こないだ中までいてくれはった菅はんいうお人をね、わてと怪しいいうて追い出したり、そら焼餅やかはんのどっせ。わてはもういつ何時でも、暇貰おう思てまんのどす」
そんな妻君の愚痴を、手紙の文章に纒めあげるのはむずかしかった。
「もう永いこと返事を出せしまへんのどす。うちが字の商売をしていてからに、手紙一本書けへんいうわけに、いかへんどっしゃろ。どうぞ、書いとおくれやっしゃ。ほかの人に頼まれへんのどっさかい」
そう言われてしきりに頭をひねっている時、豹一はふと、園井があのように律義に働いている理由がわかったと、思った。すると、にわかに周囲の空気が重くるしく感じられて来た。豹一は直ぐにも逃げ出したくなった。しかし、豹一は実行しかねた。手紙の代筆が済むと、相変らず帯封を書き続けるのだった。そこをやめて、ほかに働く当もないのだ。豹一はそんな自身が、さすがに卑屈だと恥じられた。
翌日新聞が刷り上って来たので、その発送をしなければならなかった。八頁の新聞だから先ず二枚ずつ頁を間違えぬように重ねる。次にそれを小さく畳む。それへ帯封を巻きつけて糊をつけるのだ。四千部、夕方までに発送を済まさねば、発行期日に間に合わぬというので、社長、妻君、園井、園井の妻君、豹一の五人掛りだった。豹一は新聞を畳む仕事をやらされたが、八頁のものを折目を正しくつけて小さく畳むのには、かなり力が要った。百部も畳まぬうちに掌の皮が擦りむけた。豹一は窓側に置いてある牛乳の瓶に眼をつけて、それで折目をつけることにした。それで、少し楽になった。百部畳むと、床の上に積んで、斜めに崩し、折目をスリッパで踏むのだ。前へ、後へと踏みながら、豹一は泣き出したい顔をぽかんと天井へ向けていた。
分業だから、少しも休むわけには行かなかった。欠伸一つ出来ぬ忙しさで、豹一は泡食っている咄嗟に、チャップリンの「モダンタイムズ」を想い出した。(新聞記者だと思っていたのに、これではまるで労働者だ)
僅に正午の休みを想って心を慰めていた。サイレンが鳴ると、飛び出して喫茶店へはいり、冷たい珈琲をのんで、椅子の上でじっと眼をつむって横になっていよう。しかし、正午が来ても休憩はなかった。パンを頬ばりながら、仕事を続けねばならなかった。
「遠慮せんと、食ってや」
社長の言葉にいちいち礼を言わねばならないのが情けなかった。いつものように、午後の日射しが執拗にはいって来た。額から流れ落ちる汗が瞼を伝うと、まるで涙を流しているのではないかと、思われた。いつか豹一は、大声で歌を唄っている自分にびっくりした。そうでもしなければ、その機械的な仕事に堪えられなかったのだろうが、動物じみて大声を出している自分がさすがに浅ましかった。
いきなり肩を小突かれた。体が宙を飛んでいるような甘い快感がはっと破れて、にわかに眼の前が明るくなった。立ちながら、うとうと居眠りをしていたらしかった。眼が覚めた拍子に、手は反射的に新聞を畳んでいたが、「居眠りしてる場合やあれへんぜ。しっかりしてや」そう言って、社長はなおも二、三回豹一の肩を小突いた。咄嗟に豹一の頭は、牛乳の瓶をがちゃんと机の上へ敲き割って、そこを飛び出すことを想った。
(こんなに侮辱されても、未だここで働きたいのか? 単にいやなところだというのではない。侮辱されたんだぞ)豹一の眼は久し振りにぎらぎら光って、部屋の中をにらみ廻した。が、ふと社長の妻君がせっせと帯封に糊をつけているのを見た途端、その光はあっけなく消えてしまった。社長の妻君のバサバサした髪の毛の聯想で、母親のことが頭に泛んだからである。
(ここを飛び出せば、当分また失業だぞ、それでもお前は母親の手前平気で居れるというのか?)豹一は握りしめた牛乳の瓶で新聞の折目を押えた。(母親のことを考えたら、自分勝手な気持で行動することは許されないぞ)
突然頭に泛んだこの考えは、しかし豹一自身にも意外だった。今まで自分の行動を支えて来た筈の自尊心を、こんなに容易く黙殺出来ようとは、夢にも思っていなかったのである。
「どうも昨夜寝不足でしたもんで――」そう言って、へっへとだらしなく笑っている自分にも、驚いてしまった。さすがに顔は蒼ざめていた。
三
月末、日割勘定で月給を貰った。電車賃や、昼食代を差引くと、いくらも残らない額だった。書潰しの封筒の表に毛利君と書いた月給袋を社長から渡されたとき、さすがになんとなく屈辱を感じた。
(これが欲しさに辛いことを我慢して来たのか?)そう思うと、たまらなかった。(いや、月給は問題外だ。ただ我慢して働くということが俺の義務なのだ)そう思って慰めた。しかし、帰って母親に見せた時の母親の顔で、さすがに労が報いられた気持がした。
「お前みたいな疳癪もちの子でも、よう使てくれはるな。有難いこっちゃ」お君はそう言った。
「ほんまにいな」そんな大阪弁で豹一も笑いながら言った。
「月給を貰うのやさかい、お前も洋服こしらえたらどないや?」
「いや、構へん。これで結構や」
今まで高等学校の制服をボタンだけつけかえて通して来たのだった。元来が見栄坊の彼だから、体裁の悪さは存分に感じて来たのだが、この際余計な金は使いたくないと我慢していたのだった。が、結局母親が執拗く薦めたので、月賦払の洋服をつくることにした。
縞のワイシャツの上へ地味なネクタイをしめて、上衣のボタンを丁寧に二つもはめると、如何にもお勤人らしくなった。その姿でびっしょり汗をかきながら出社すると、社長は、「これは、これは」と、驚いた顔をして見せた。社長は褌一つだった。
豹一は暑いというのを理由に、上衣を脱ぎ、往復にも肩に担いだ。それではじめて新調の洋服を着ているという気恥しさから免れた。が、不器用な彼はネクタイが上手に結べなかったので、道を歩きながらでもしょっちゅうネクタイの結び目へ手をやっていた。だから、誰も彼を一眼見れば、彼がお洒落男か、それともはじめて洋服を着た男であるかのどちらかに違いないと、簡単に見抜けたわけである。
(はじめて背広を着る気持は、葬式の日に散髪するようなものだ)
当分の間、彼はこんな風に洋服に拘泥っていた。電車の中でも、道を歩いていても、人の洋服ばかりに気をとられていた。つまり、自分より年をとった人ばかり、それも大抵お勤人ばかりを注視していたのである。
(あの会社員らしい男は、夜寝る時ズボンを蒲団の下へ敷かないらしい)等々。自然、豹一の感情はだんだん分別臭くお勤人じみて来た。帽子屋の飾窓の前に立って、麦藁帽など物色しないのが、まだしもだと言えるぐらいだった。
日が暮れて、とぼとぼと帰る途、下を向いて歩く習慣がついた。
「心身共に疲労した。心身共に疲労した」豹一はそんな言葉をぶつぶつと呟きながら歩いた。三高にいた時、漢文の教師から「君は心身共に堕落している」と言われたことがあった。それを、なんということもなしに思い出していた。その時教室の中でケッケッと笑っていた。そんな元気はいまは無かった。
まるで泳ぎつくようにして、日曜を待ち焦れた。が、日曜が発送日に当っていることもあった。すっかり悄気てしまうのだった。休むわけには行かず、夜おそく新聞を畳んで、郵便局までリヤカーにのせて持って行くのだった。翌日、代休を申出る勇気もなかった。二週間打っ続けに働いて、やっと休みになると、漫才小屋へ行った。他愛もなくげらげら笑って、浅ましかった。月末になると、こともあろうにひそかに昇給を期待する顔をして、一層浅ましかった。たいして骨惜しみせずに、こつこつ働いているとわれながら感心していたぐらいだし、しかも記事など永年の経験者である社長よりも上手だったから、ひょっとしたらという気があった。しかし、やはり社長は五厘切手一枚のことにも目の色をかえる男であった。昇給どころか、豹一が原稿用紙を乱暴に無駄使いするので、口実さえつけば減俸してやりたいぐらいに思っていたのである。
(なまじっかお情けに一円ぐらい昇給させて貰って、愚劣な喜び方をするよりは、いっそ永久に昇給しない方がましだ)そう思ってみたものの、矢張り月給袋の中を見ると、なにか侮辱されたような気持がして、ひそかに社長に腹を立てた。が、そんな自分にはさすがに一層腹が立った。
(お前も随分卑俗な人間になってしまったではないか)
もはや自分が許しがたい人間になってしまったと、豹一はがっかりした。何故こんな風になったのかと考えてみたが、分らなかった。もともとはじめから、彼は働くことの面白さなどという贅沢なものを味わなかった。いきなり帯封書きだったのである。だから、毎日が実に退屈な、無気力な日々の連続であった。昇給のことでも考えているよりほかに、致方がなかったのである。彼にとって不幸なことは、彼が同僚というものを持たなかったことである。社長、園井、自分、この三人しか社にいなかったが、園井はもはや昇給のことは諦める気持を十年養って来て、いまはもっと大きな野心で、ふくれあがっている。つまり、誰も昇給のことに血眼になる者がいなかった。だから、豹一ひとり知らず知らずそんな風になってしまったのである。いわば、独立の道を切りひらいたのである。
(少しも昇給しないのは侮辱されているようなものだ)
もし、自分の周囲に昇給のことをしょっちゅう考えているものがいたら、彼はてんで昇給など問題にしなかったところである。
豹一はまる一年半、性こりもなく昇給を期待していたのである。(こんどこそ、昇給しなければここを廃めるんだぞ)そう言い聴かせてから、半年もうかうか経ってしまった。もはや豹一は、完膚なきまでに自分を軽蔑していた。余り毎日退屈だったので、彼は「本邦畳史」の記事蒐集に取り掛った。それを連載すれば、たとえ社長と雖も、自分を認めてくれるだろうなどと、ひそかにそれで以て昇給を期待することだけは、さすがに許さなかったが。
自分自身から見離されてしまったので、彼は全く古手拭のような無気力な、ひっそりした人間になってしまった。しかし、二十歳の彼にはしばしば自分を軽蔑するだけの若さは未だ残っていた。それがせめてもであった。そして、ある日、彼は遂にその若さに物を言わせてしまった。
その日、発送日だった。だから、彼はいつもより機嫌が悪かった。が、ただ一つ、彼がかなり苦心して纒めあげた「本邦畳史」の第一回目が掲載されているのを見るという楽みがあった。ところが、刷り上って来たのを見ると、それがどこにも載っていなかった。
「どうして載せてくれないんですか?」と、社長に抗議するのも恥しい気持で、豹一は赧くなって、そわそわと新聞から眼を離した。
(没にされたのだろうか、それとも次号廻しだろうか?)そんなことをしょんぼり考えているところへ、印刷所から、別刷りだと言って、百部ほど刷り上りを持って来た。見ると、「本邦畳史」が相当大きな見出しで載っていた。
「別刷りというのもあるんですね」と豹一はそれとなく社長に訊いてみた。
「へえ、おまっせ」社長はアルミの金盥にいれた糊をしきりにこねまわしながら、ぼそんとした声で言い、そして、「こら内緒やが――」最近当局の新聞取締がきびしくなり、むやみに広告の段数をふやすことが出来なくなったので、検閲係や官庁へ提出用の分として、広告の段数を減らし、記事の段数をふやした別刷りの新聞をつくって置くのだと、社長は説明した。
「君、御苦労やけど、別刷りの新聞二部、府庁の特高課へもって行ってんか」
「今直ぐですか」反射的にそう言ったが、むろん怒ったような声だった。
「ああ、今直ぐ行ってんか」
「いやです!」大袈裟に言えば、一年半こらえにこらえて来ただけの声の響きはあった。豹一自身、われながら満足出来る声だった。少くとも辞職の瞬間に相応わしいような声だと、思った。自分の記事が別刷りの埋草だけに使われたということへの怒りが、この気持に拍車を掛けた。社長の痩せた貧相な顔を見ると、さすがに気の毒な気もしたが、しかしもはや不正を前にしては、そんな同情はこの際の勘定にいれる必要はなかった。
「なんでや?」社長はさすがに糊から眼を離したが、豹一の真蒼な顔を見ると、なに思ったか、とんとんと二階へ駈け上って行った。
「毛利君、どないしたんや? お腹でも痛いのか?」園井はびっくりした声で、しかしわざとゆっくりとそう言った。豹一は返事をしなかった。間髪をいれず社長のあとを二階へ追うて行って、辞職を申出でる必要があるか、どうか、咄嗟のうちに考えていたからである。
(まごまごしていて、時期を逸しては醜態だ)そう思って、二階へ行こうとしたところへ社長が降りて来て、豹一に市電の切符を二枚渡した。
(莫迦々々しい。まるで俺が、電車賃を惜しんで、府庁へ行くのをきらったのだと思っていやがる)それで、彼の決心はいよいよ固くなった。
「僕は今日限り廃めさせていただきます」わりに丁寧な声が出たので、われながら気持良かった。
「なんでや? 藪から棒に――」
巧く理由が説明出来そうにもなかったし、また、一刻もそこに居りたくなかったので、物も言わず、いきなり外へ飛び出した。戸を閉めるとき、乱暴に大きな音がした。はっとそれが気になった。二、三間歩いてから、振り向くと、軒先に「日本畳新聞」の看板が貧相に掛っているのが眼にはいった。そこが薄汚いしもた屋であることも、なんとなしに眼に痛かった。足蹴に掛けたという気持が思い掛けず、胸を重く締めつけた。まる一年半、少くとも自分の失業を救ってくれたのではないかと、力無く呟いてみた。自分が廃めたあと、社長はまた頭がふらふらするといいながら、ひとりで編輯しなければならないのだと、社長の皺だらけの薄い胸や、壊れかけたガラスペンなどが頭に泛んで来た。僅に、(しかし、社長はあの不正の手段で、五、六万円の金を溜めて来たんだ)と思うと、気が楽になり胸を張って勝山通四丁目の停留所の方へ歩いて行ったが、直ぐに気の抜けた歩き方になった。停留所まで来たが、電車を待つ気になれなかった。ただなんということもなしに、当もなく電車道を歩いて行った。寒いのでせかせかと足早に歩いたが、不正と闘ったという心の張りがちっとも感じられなかった。
(到頭失業者になったぞ)という想いが追いかけて来た。天王寺西門前からやっと西行きの電車に乗った。が、一つ停留所を過ぎただけで、もう恵美須町の終点だった。乗換券も貰わずに降りて、新世界へ行った。活動写真を見たりして時間を潰しているうちに夜になった。恵美須町から電車に乗り、日本橋筋一丁目の乗換場所で降りて、谷町九丁目へ行く電車を待っているうち、ふと気が変って足は千日前の方へ向いた。なんとなく家へ帰るための電車を待つ気がしなかったのである。千日前から法善寺境内にはいると、いきなり地面がずり落ちたような薄暗さであった。献納提灯や燈明の明りが寝呆けたように揺れていた。豹一はなにか暗澹とした気持になった。
境内を出ると、貸席が軒を並べている芝居裏の横丁だった。胸に痛いようなしょんぼりした薄暗さだと思われた。
「ちょっと、ちょっと、洋さん」声掛けられて急いで通り抜けて行った。前方には光が眩しく流れていて、戎橋筋だった。その光の流れはこちらへも向うの横丁へも流れて行かず、筧を流れる水がそのまま氷結してしまったようだった。それが豹一の心に眩しかった。
その光の中に、詳しく言えば、小間物屋の飾窓に立って、飾窓を覗いていた女が、ふと振り向いて、豹一の顔を見た途端、
「あッ」思わず同時に、声が出た。か、どうかは咄嗟のことであとから考えてみても記憶はなかったが、豹一はいきなり突っ立ったまま、暫く動けなかった。紀代子だった。薄暗いところから出て来た豹一には、紀代子が明るい光のなかにいるせいか、思い掛けず美しく見えた。それが豹一の頭に、
(俺はいま失業者だ)と不意に想い出させた。そのため、豹一は一層狼狽してしまった。貸席のある横丁からのこのこ出て来たということも、咄嗟のうちに頭にあった。
紀代子は直ぐ視線を外らし、飾窓の前を離れて歩き出した。それで、彼女に連れがあることがはじめて分った。彼女は実に簡単に素知らぬ顔をつくっていた。
(亭主だな)豹一は途端に察した。どんな顔をしているか、見てやろうかと、覗いてみたが、極めて平凡な顔だったので、印象がはっきりしなかった。つまり紀代子の亭主は世間にざらにある若い亭主の顔をしていたのである。
二、三間行くと、紀代子はいきなり振り向いて、ペロリと赤い舌を出した。豹一の自尊心は簡単に傷ついた。丁度自分の身なりの貧弱さを気にしながら、おずおずとあとに随いて行きかけた矢先だったのである。紀代子の舌に噛みついてやりたいぐらいのいまいましさだったが、それが実行出来そうもなかったので、一層口惜しかった。豹一はこそこそと反対の方へ引きかえして行った。靴の底がすり切れて、ペタペタと情けない音を立てた。
しかし紀代子も実は恥しい想いをしていたのである。豹一の顔が暗がりからぬっと出て来た時、紀代子は傍に立っている亭主のニキビだらけの顔を実に醜いと思った。さすがに豹一は未だ少女のような顔をしていたのである。しょんぼりしていたので、一層可憐だった。洋服がお粗末だったので、にやけて見えることも免れていた。紀代子はなんとなく豹一の手前恥しくなった。亭主の顔のことばかりでなかった。彼女は丁度ハンドバッグをねだって、「世帯が荒い。もったいない」と亭主にはねつけられていたところだった。亭主は官庁に勤めていたが、未だハンドバッグが簡単に買えるほどの月給は貰っていなかった。それが紀代子には豹一の手前ひそかに恥しかった。しかも、そのハンドバッグはたった四円八十銭ではないかと、こそこそと逃げるように立去ったが、それでは余り芸が無さ過ぎると思った。ふと振り向いた。その途端にペロリと舌を出した。女学生のような無邪気な仕草をちょっと借りてみたのは咄嗟の智慧だった。それでなんとなく世帯臭い恥しさが隠せると思ったのである。それに、ちょっとした媚態になるではないかと、紀代子は計算していた。だから一層効果的にと、長い間舌を出していた。つまりは年に似合わぬ悪どい表情だった。
ところが豹一にはそんな紀代子の気持は分らず、紀代子の念入りの表情を見てすっかり参ってしまった。(よし、どうあっても自尊心の傷を回復しなければならぬ!)戎橋の上を通りながら、豹一は上衣のボタンを一つちぎってしまった。彼の心は朝から興奮に駆られ易い状態にあった。いきなり難波の方へ引き返した。(紀代子の顔を撲ってやる義務がある)こんな野蛮なことを考えた。電車通のゴーストップで信号を待っていると、ふと、(しかし、まさか雑閙の中で撲るわけにも行くまい)青が出て、大股で横切りながら、(いや、雑閙であることが是非必要なんだ! 効果もあるし、しかも非常な勇気が要る)
四
半時間ほど戎橋筋を駈けずりまわったが、紀代子の姿は見つからなかった。おかげで雑閙のなかで女の顔を撲るという不愉快なこともせずに済んだと、ほッとした。が、同時にひどく意気込んでいただけに、がっかりして諦め切れぬ気持が残った。なおも未練たらしくうろつき廻った挙句、魂の抜けたような顔をして喫茶店にはいって行った。
「らっしゃいませ」
ひどくはすっぱな声がしたので、びっくりして顔をあげると、厚化粧をした女の顔が五つ、六つ赤い色の電燈に照らされて、仮面のようにこちらを向いていた。カフェではなかったかと、豹一は思わず入口の方を振り向いたが、カウンターが入口にあるところや、女たちが皆突っ立っているところを見ると、そうでもなさそうだった。しかし、それにしてもまるでカフェのような喫茶店だと思うと、豹一は逃げ出したくなった。この際ミルクホールのようなしょんぼりした喫茶店でぽかんとしているのが適しいのである。が、うかうかと間違ってはいった以上、こそこそ逃出して、似顔画描かなにかと思われては癪だと、ルンバの音を腹立しく聴きながら、隅の方の席へ坐った。
女たちはいずれもあくどい色のイヴニングを着て、ルンバに合せて、妖しく尻を振っていた。例外なしに振っているところを見ると、営業者の命令であるのかもわからなかった。安来節踊りの腰付きのようなものもあれば、レヴューガールのような巧妙なのもあった。が、いずれにしても醜悪を極めていた。ふと女たちの眼が一せいに自分に注がれているのに気がついた。豹一は自分の眼の方向を見抜かれたと思い、みるみる赧くなった。
ところが、女たちが彼の方を見ていたのは、彼が実に一風変っていたからである。彼はまるで飯屋へ入るような容子で、ここへはいって来たのだ。普通男たちは例外なしに、多少とも気取ってはいって来るものである。わざと何気ない顔を渋くつくろう方などは良い方で、レコードの調子に合せてステップを踏みながら席につくなど、ざらである。帽子に手をかけたり、ネクタイにさわったりするのが十人のうち六人ぐらい。友達づれは、たいていわざとらしく話をしながらはいって来るか、誰か一人が女の立っている傍の席を見つけると、他の者がへっへと笑いながら随いて来る。女と顔見知りの者は「あいつ来てへんかったか」といいながら来るのが十人のうち四人。黙って顔をにらみつけながらはいって来るのが四人。あとの二人は、「どうぞこちらへ」というまで坐らない。
ざっとこんな風だったから、豹一のようになんの気取りもなしに、行きつけの飯屋へはいるような容子でぶらりとはいって来るのは珍らしいのである。実は元来気取り屋の豹一も、ここへはいって来る瞬間、さすがに気取るだけの心の張りを無くしていたのである。だから、随分人眼をひいた。おまけに彼は美貌だった。つまり彼女たちに言わせると、一風変っていたのである。
眉毛を細く描いた眼の細い女が、豹一のテーブルへ近づいて来て、
「あんた、ボタンがとれちゃってるわよ」と、豹一の上衣にさわった。彼女も、もし豹一が赧くなっているのでなかったら、こんな風に馴々しくしなかったのだ。普通、若くて美しい男は蒼い顔をして、じっと眼を据えているものである。つまりどこか不良くさいと、一応は敬遠されるものだ。豹一はおどろいて、上衣を見た。二つともボタンがとれていた。一つは戎橋の上でちぎって捨てた記憶はあるが、あとの一つはどこでとれたのかわからなかった。
「恋人につけて貰いなさいよ。みっともないわよ」私がつけてあげますよと言わんばかりだったが、そんな眼つきがわかるほどには、豹一はすれていなかった。
「恋人なんかあるもんか」殆んど口に出かかった言葉をぐっとのみ込んだ。紀代子のことがちらりと頭に泛んだからである。恋人がないということが、この際なにか恥しいことのように思えた。なお、ボタンがとれていることも、なにか失業者じみている。だいいち、上衣のボタンの無いのが眼につくのは、寒空にオーバーも着ていないというはっきりした証拠になる!
(よし、この女を恋人にしてやる)
だしぬけにそう決心した。みっともないと言われたことが、我慢がならなかった。おまけに東京弁だ!
「どうしてとれちゃったの?」女はなおも上衣にさわっていた。香油の匂いが鼻をついた。豹一は顔をしかめた。
(まるで質屋の小僧のように俺の洋服を調べてやがる)豹一の決心はいよいよ固くなった。かつて、毎日質屋へやらされたことを腹立しく想い出した。続いて、かつてのさまざまなみじめな出来ごとが、次から次へ頭へ泛んで来た。
(こんなみじめな俺が衆人環視のなかで、この女を恋人にして見せるのは、面白い)
紀代子の顔を撲れなかった代償としても、充分やり甲斐のあることだと、豹一は胸を熱くしていた。が、衆人環視のなかで、恋人にしてみせるとは、いったいどんなことなのか、豹一にはわからなかった。ふと、顔が赧くなるような、乱暴なことを思いついた。が、さすがに実行出来なかった。それどころか、物を言おうとすると、体が固くなって来た。
(こんなことでは駄目だぞ! よし、百数えるうちに、この女の手をいきなり掴むのだぞ)そう言い聴かせた。握るといわずに、掴むというところが、豹一らしい。
「ねえ? あんた、お家どこなの?」
豹一は返事をしなかった。一つ二つと数え出していたからである。
(五つ、六つ……十、十五、……二十、……)
いきなり煙草の銀紙をまるめた玉が飛んで来て、豹一の肩に当った。
(二十七、二十八、……どいつだ? 二十九、三十、……)
豹一はじろりと部屋の中を見廻した。若い男と視線が合った。咄嗟ににらみかえして、豹一は、
(あいつ、この女に気があるらしいな)と、思った。その男もじっと眼を据えて、にらみかえしていた。女は素早く二人の容子に気がついて、
「およしよ。あの人、不良よ」豹一の耳の傍で言った。
不良と聴いて、豹一の眼は一層凄みを帯びた。余りににらみ過ぎて、泪が出そうになったので、あわてて、眼をこすって、またにらみかえした。
(よし、あの男の眼の前で、この女の手を掴んでやる! それから、あの男に飛び掛って行くんだ! おっと、数えるのを忘れていた。一足飛びに五十と行こう。……五十一、五十二、……)
豹一の顔はだんだん凄く蒼白んで来た。ルンバの早いテンポに合わせて、数え方も早くなって行った。
(百数えて、これが実行出来なければ、お前はおしまいだ! 一生人に軽蔑され続けるんだぞ。それでも良いか? お前の母親は辱しめられたんだぞ)
もうあとへ引けないと思うと、豹一はだんだん息苦しくなって来た。銀紙を投げた男はいまにも飛び掛って来そうだった。
(六十二、六十三……、六十七、六十八、……)
豹一ははげしく胸の音を聴いた。ついぞこれまで女の手を握ったことが無いのである。
「七十、七十一、七十二、……七十五、……」
はねつけられた時のことを考えると、だんだん勇気が挫けて来た。いきなり、豹一は声を立てて数えはじめた。
「七十六、七十七、七十八……」
女はあきれてしまった。(この人気違いではないかしら?)
豹一はもうそんな女の顔を見向きもしなかった。ただ、じっと男の顔をにらみつけていた。
「七十九、八十、八十一、……」
ルンバの騒音は豹一の声を殆んど消していた。が、豹一の真赤になった耳は自分の声と格闘を続けていた。
「八十一、八十二、八十三、……」
「らっしゃいませ」
「珈琲ワン」
「ありがとうございます」
「ティワン」
喧騒のなかで、豹一の声は不気味に震えていた。
「八十四、八十五、八十六、……」
色電球の光に赤く染められた、濛々たる煙草のけむりの中で、豹一の眼は白く光っていた。
「八十七、八十八、八十九……」
[#改段]