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渡良瀬川
Watarase-gawa - 1
大鹿卓
Ôshika Taku
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source: https://www.aozora.gr.jp/cards/001476/files/51155_59739.html
+目次
那須ヶ峰にのぼる煙りのこころあらば
雲井につげよ民の心を (明治十七年) 正造
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乞う、陸地測量部二十万分ノ一の地図「日光」及び「宇都宮」をひろげてみよ。中禅寺湖をかこむ外輪山の南面、松ノ木沢に源を発してうち重なった緑のひだのあいだを南流する一川に気づくであろう。それは赤城山脚を右岸とするあたりからおおきく東南に転じ、左岸に日光山彙からなだれてきた一群の丘陵の裾をおさえつつ、大間々、桐生、足利とようやく広濶の地にでて、迂曲し蛇行して栗橋の手前で大利根に合流する。
これがすなわち渡良瀬川である。途中これに合する支流を数えれば、南方から注ぐものは矢場、谷田の二川にすぎないが、北方からは桐生、小俣、松田、やや下って袋、才、旗、秋山の諸支川、さらに古河の近くで思川が来り合している。その流域は栃木、群馬、埼玉、茨城の四県下にわたり、面積は二百三十余方里、幹川の流路は二十七里、支川を合せた総延長は二百十余里に及んでいる。
Déployez les cartes topographiques du Ministère des Travaux Publics, à l'échelle de 1/200 000, intitulées « Nikkō » et « Utsunomiya ». Vous remarquerez alors, sur le versant sud du mont externe entourant le lac Chūzenji, un cours d'eau qui prend sa source dans la vallée de Mominokizawa et serpente vers le sud à travers les plis successifs de verdure superposés. À partir de l'endroit où le pied du mont Akagi forme sa rive droite, ce fleuve oblique fortement vers le sud-est, longeant la base d'un groupe de collines descendant des monts de Nikkō situées à sa gauche, traverse les plaines relativement étendues de Ōmama, Kiryū et Ashikaga, puis, après de nombreux méandres et sinuosités, rejoint le grand fleuve Tone juste avant Kurihashi.
Il s'agit précisément de la rivière Watarase. En comptant les affluents qui s'y jettent en cours de route, on trouve seulement deux rivières venant du sud : la Yaba et la Yada. En revanche, du côté nord, plusieurs affluents convergent : les rivières de Kiryū, Komata, Matsuda, puis un peu plus bas, les affluents de Fuku, Sai, Hata et Akiyama, auxquels s'ajoute près de Koga la rivière Omo.
Son bassin hydrographique s'étend sur quatre préfectures : Tochigi, Gunma, Saitama et Ibaraki, couvrant une superficie de plus de 230 « hōri » carrés. Le cours principal mesure 27 « hōri », et la longueur totale, affluents inclus, atteint plus de 210 « hōri ».
さて、この下流の平野が五穀豊穣であったのは古来のことで、古い郷土史をたずねれば人皇十代崇神天皇の御代に豊城入彦命が下向して毛野の始祖となりたもうて以来、日本武尊の御東征をはじめとして、藤原魚名の東夷討伐、天慶の乱、前九年、後三年の役など東国に反乱のある度ごとに、佐野の地方が討伐の根拠地となり兵站部となっている。つまり物資がゆたかでよくそうした場合の徴収に堪え得られたし、生活がのんびりしていたから将卒の土着して農耕に従う者がしだいに多く、その子孫がまた兵の徴募に応じるという事情があったためだという。この地方に古墳の多く発見されるのも、村々に城跡や堡砦の跡のおびただしいのも、この間の消息を証拠だてるものである。また「安蘇に無姓なし」という俚言の行われたのも、仕事ぎらいの無性者を指したのではなくて、家々の由緒や系図をほこる謂であった。徳川が統治上の不便から官名禁止の圧制を行う前は、安蘇地方だけで宮中の官名位記を持っていたものが二百五六十家あったというから、あたかも京都及びその近郊に公卿がうじゃうじゃしていたのと同然で、ただそれとは身分に隔りがあっただけである。これらの土豪たちは己の家系を誇るところから自尊心が強く、徳川の治下になってからも内々ではなかなかその権勢に屈しないものをもっていた。多かれすくなかれ尊王思想をひそめていて、それが郷党に一種の気風をかもす結果となっていた。
五穀豊穣の地であることをいうために、なにもそうした旧事を持ち出すまでもない。ただ河川が潤沢であることを挙げただけで、その一半の証明ともなるであろう。
Il est de notoriété publique que les plaines basses de cette région ont toujours été prospères en production agricole. En consultant les anciennes histoires locales, on apprend qu'à l'époque du dixième empereur, l'empereur Suinin, le prince Toyoki-Irihiko fut envoyé dans cette région, ce qui fit de lui le fondateur du clan Mononobe. Depuis lors, à chaque soulèvement dans la région de l'Est — que ce soit l'expédition orientale du héros japonais Yamato Takeru, la campagne contre les barbares de l'Est menée par Fujiwara no Uona, la révolte de Tengyō, ou les conflits des « Neuf premières années » et des « Trois dernières années » — la région de Sano servit de base arrière et de centre logistique militaire. Cela s'explique par l'abondance des ressources locales, qui permettait aisément de subvenir aux besoins des troupes mobilisées et qui, par une vie paisible, incitait graduellement les soldats à s'établir localement, à s'adonner à l'agriculture, leurs descendants, à leur tour, répondant aux appels de recrutement militaire. Le grand nombre de tumulus anciens découverts dans cette région, ainsi que la présence fréquente de vestiges de châteaux et de fortifications dans les villages, témoignent clairement de ces faits historiques. De même, le proverbe populaire « Il n'y a pas de sans-clan dans la région d'Anso » ne faisait pas référence à des vagabonds oisifs, mais signifiait que chaque famille se targuait de son origine et de son arbre généalogique. Avant que les Tokugawa n'imposent, pour des raisons administratives, l'interdiction des titres officiels, pas moins de deux cent cinquante à deux cent soixante familles dans la seule région d'Anso détenaient des titres et rangs officiels de la cour impériale. On pouvait comparer cela à la concentration des nobles à Kyōto et dans ses environs, si ce n'est que ces familles locales différaient par leur statut social. Ces seigneurs locaux, fiers de leur lignée, affichaient un fort sentiment d'orgueil, et beaucoup, même sous la domination Tokugawa, refusèrent secrètement de se soumettre pleinement à leur autorité. En eux sommeillait plus ou moins fortement une idéologie pro-impériale qui finit par imprégner la région d'un esprit particulier.
Il n'est pas nécessaire, cependant, de remonter à tous ces faits anciens pour souligner la richesse agricole de cette région. Il suffit simplement de mentionner l'abondance des cours d'eau pour en fournir déjà une preuve partielle.
河川があればこれに洪水のともなうことは、何処でもまず例外のない話である。渡良瀬川の下流地方もまた実に三年目、五年目に洪水に見舞われてきた。しかもその水源地は山が深く、嘗ての頃の尾根々々は斧鉞の入らない鬱蒼とした森林におおわれていたから、ひとたび山岳地方に大雨があると、その出水は森林の根方及び谷底に堆積していた枯枝、落葉、木の実の類の腐蝕したものを泥とともに押し流して、これを下流の沿岸一帯へ運びこんだ。それゆえ汎濫の去ったあとは、薄いところで二三寸、厚いところは八九寸もこの游泥でおおわれる。いわゆる腐葉土、天然の肥料である。すなわち洪水は沿岸の農作物を侵すが、そのかわり翌年、翌々年は肥料を施すことがいらない。農民たちはかえって洪水をよろこぶ傾向さえあった。しかも彼等はその年洪水で失った作物の損害を、漁獲によって補うことができた。洪水があると、四囲いたるところの河川、沼沢、渠溝に、魚がおびただしくふえるからである。
洪水は夏から秋へかけて多い。このあたりの農民は自然の教えに従って、大豆、小豆、粟、陸稲、芋などの夏作はなるべくわせ物を作って、その害を遁れるようにしていた。だが、大麦、小麦、菜種、辛菜などの冬作は、ただ種さえこぼしておけば無肥料で収穫があった。大麦は丈が五尺にものびて自分の重味で倒れがちだった。馬につけると穂が房々と垂れて地に引きずった。菜種は六尺余りにのび、辛菜は八九尺に繁った。菜の花の咲き盛るころには、沿岸一帯が鬱々と黄金色のひかりを放って、空が明るくなるほどであった。
また沿岸には森や竹林が鬱蒼と茂っていた。殊に竹林は見事に発育して、「尺丸」といって一本を一把として売買するような太竹が伸びた。八九月頃にはその出荷の青竹が筏に組まれて無数に川を下った。孟宗竹のほかにも到る処に篠竹が繁茂し、その幹がみっしり立てこんで、上り下りの川船もただ楫音をきくだけで姿が見えぬほどであった。これらがまたおのずから護岸の働きをした。
そうした篠竹や、泥柳や、葦の茂ったところでは、川面へ突き出して櫓を組み、四ツ手網をかけているのが見られた。十文字の青竹がしわって、ザアッと水のしたたる網が引きあげられる。獲物の魚が銀いろにピンピン跳ねる。鮠、鮒、鯉、マルタ等が一晩に十貫二十貫目と捕れた。晩夏初秋の頃になると、朝靄のなかに舟を流して投網をうつ姿が見られた。鱸や鯔が一網で五尾も六尾も捕れていた。また枝川へ杭木を立てて鮭網をかける者もいた。大雨の後には濁り水に仕掛けた袋網からは、五貫も十貫も鰻が捕れた。
たとえ年々歳々、ここにもまた人生の喜怒哀楽はさけがたかったとしても、まことに農民たちにとっては、自然の恵みを残りなく甘受できる安居楽業の地であった。
ところが、明治十二年の夏のことである。雨あとの川水が青白く濁って魚が白い腹を返して浮いて流れて来た。何千匹というおびただしい数である。だが、ただ目撃したものだけがどうしたことだろうと不審を抱いただけでその年は過ぎた。するとまた翌年の洪水に、勢のつよい鰻がくたくたになって流れてきた。子供たちがおもしろがって手づかみにして騒いだ。
「渡良瀬川にちかごろ変なことが起ってきた」
ようやく不審の声がひろがった。これは唯ごとではないぞと、野良の立話に不安の眉をひそめる者もいた。だが、誰一人として、その理由を知る者はいなかった。すすんで原因を穿鑿しようとする者もなかった。おそらく桐生や足利辺の機業家が使う染料のせいだろう、どこにもいる半可通のそういう言葉に、なるほどと合点して、すましていた。さすがに栃木県令藤川為親は、渡良瀬川の魚は衛生に害がある、捕獲してはならぬと訓令を出した。この警告は明治十三年、十四年、十五年とつづいたが、ただ魚獲の抑制にとどまった。しかもその藤川はいつか島根県へ左遷されてしまった。
年々魚獲を業とするものは減って来たが、一般の農民たちはなおそうした事態を警告として、深くは意にとめなかった。洪水に見舞われるのは天災で普通のことだとしていたし、ただ洪水のあとで足の指の股が爛れるのや、洪水のおいていった土には草が生えぬのが不思議だと語り合う程度であった。こうしてまた幾年か経った。だが、その洪水も年ごとに荒々しさを加えてきた。北岸の栃木県下では数カ所の支流から逆流が洪水の度ごとにはげしくなって、田畑の収穫が著しく減ってきた。南岸の群馬県下は支流がすくないから逆流の害はなかったが、堤外地の桑畑へ植えた里芋が、わずかに天保銭くらいの葉になったと思うと枯れてしまった。あとへ植えた陸稲がこれもまた三四寸で枯死した。洪水に丈夫な桑が倒れたまま根がつかず次々に枯れていった。こうして異変は見る目に著しくなった。いやでも異変に無関心ではいられなくなった。この渡良瀬川の上流の山奥に足尾銅山がある。それが最近、さかんに仕事をしだしたそうだ。その鉱毒が流れてきて、この禍をするにちがいない。だれがいいだしたともなく、そうした声が農民たちの耳に入り、今更のごとく驚愕の目色で語りつたえられた。それを聞いたものは過去を思い合せ目前をにらみ合せて、さすがに一種いいしれぬ恐怖に襲われた。ようやく異変の原因に気づいて胸を打たれたものの、人々はどうしたらいいかわからなかった。ただ憂愁の顔を見合せて今後の成り行きを憂えるのみであった。今のうちにその筋に訴えて除害の方法を講じてもらわなければならぬと語り合う者もいたにちがいないが、さていかにしてという実行までには発展しなかった。恰もこのとき彼等の愚昧を怒るごとく笑うごとく、明治二十三年八月二十三日、またしても洪水がこの地方を襲った。渡良瀬川としても、その増水は未曽有のことだった。栃木県下では諸支流が水嵩たかく逆流して付近一帯の耕地を浸した。
群馬県下は西谷田村大字除川字大巻の堤防が決潰して、館林以東の八九カ村が泥海と化した。
被害地中ことに惨害を蒙った吾妻村では十二月に臨時村会をひらいて、村長亀田佐平の名で栃木県知事宛に上申書を呈した、ともかく鉱毒の被害に目ざめて公に抗議した先駆である。文中にはこんな文字があった。「之れ独り我が吾妻村のみならず、渡良瀬川沿岸の各村落は同一の害を被り、多年を俟たずして荒蕪の一原野となり、村民悉く離散せん」同月栃木県会でも折田知事宛に除害の処分方を建議した。しかし県庁も郡役所も、鉱毒被害の広く認識されることによって沿岸人民の動揺することを恐れるもののように、ただ隠然と申しわけだけの調査をするにとどまった。
翌年の四月上旬、足利、梁田、両郡の有志が足利町に会合して、被害地の有志と相謀って、自分たちみずから実地の調査をすることを申合せ、それぞれ自村に帰って計画をすすめた。すなわち五月一日には吾妻村の亀田佐平、内藤増次郎、川田道二郎、毛野村の早川忠吾、小貫和吉、川島簑吉、梁田村の長祐之、中山勝作、小川作太郎等が毛野村に集って、さらに具体的に調査の一歩をすすめることにした。翌日、早川は吾妻村大字羽田及び梁田村大字梁田の澱土を携えて上京し、長は足尾銅山へむけて出発した。
早川忠吾は佐野出身の新聞記者村田誠治を訪ねて志賀重昂への紹介を依頼した。志賀は農学士で当時同じく政治記者をしていたから、土砂分析の適任者を選定してもらう考えであった。志賀は高等師範学校の大内健に宛てて添書をくれた。大内を訪ねると彼はまた農科大学の古在由道を推して、この人ならば公平無私で決して情実に流れることはないと、その人物の剛直を保証した。早川は意を強うして早速に古在教授を訪れて来意を述べ、
「すでに現地には農商務省から坂野技師も出張して来てはおられますが、どうも行政庁のやることは私ども地方民の望に反して迂遠です。且つ調査の結果をそのまま報告したら、或は農民が騒ぎだすのではないかという心配から、おそらく事実そのままは発表されないのではないか、私どもはそれを杞憂しております。実情は私どもがそれをおそれるほど被害が大きいのです。あくまで農科大学の御見識をもって学問上から突込んで研究していただきたい。私どもは信頼のできる農科大学の調査によって、被害の原因をつきとめたい、そう思って、わざわざ土砂を携えて上京したのです」
黙々ときいていた古在教授はそれに答えて「目下長岡教授が出張中で、耕地の土砂を各種持って帰ることになっています。帰京次第それで試験地を設けて試作する準備もしている。大学は独自の見地から調査はすすめている。だが、地方の人々が農科大学の分析に信頼されようとする気持ももっともである。よろしい、早速分析をしてあげよう」
早川は更に膝をすすめて、
「その報告をいただけば、それぞれ地方の有志に見せなくてはなりません。先生は報告の責任を負われることになりますが」
「もちろん、分析を引受ける以上はその覚悟である」
その然諾に早川はおおいに力を得て帰郷した。そして同志とともに一日千秋の思いでその報告を待った。
一方、長祐之は桐生、大間々を経て、渡良瀬川に添って溯ること十数里、三日に足尾に到着した。途中上州花輪のあたりへ来ると、渓流の水の色がすでに変っていた。足尾の町家をすぎ、やや上流の渡良瀬部落へきて合流点に立ったとき、彼は思わず足をすくめてその水流に見入った。細尾峠から神子内を経て流れてくる沢は清冽であるのに、松ノ木沢の一流はその色が粘土と石灰をかき混ぜたように濁っていた。両者の別は截然たるものである。鉱毒の有無を水の色に見たと痛感せざるを得なかった。翌日はその渓流ぞいに赤倉の製煉所へ行って、焼鉱炉や高炉の数箇の煙筒が、濛々と無気味な煙を吐いて日の光りを遮ぎるのを見た。鼻を衝き喉を刺戟する悪気があたりにただよい流れるのを見た。溪谷をかこむ山々に樹木ひとつなく目にとまるのは無惨な枯木だった。山肌はどこも崩れ落ちそうで磊々たる岩石の堆積だった。これでは夏季豪雨の候に土砂岩石が一時に押しながされて、渡良瀬の河身を浅くするのも道理であるとうなずかれた。さらに本山の有木、鷹の巣、本口の諸坑口へ攀じのぼって、諸坑の坑口から青味を帯びた汚水が流れ出るのを見た。これこそ丹礬質をふくむもので、こうして常時絶え間なく渡良瀬川へ鉱毒が注がれているのであるかと慄然とした。次の日は小滝坑を見て、ここでもまた同様の感慨を深くした。
そこで彼は、銅山の当事者が鉱毒被害をどう感じているかを知ろうとして、六日には銅山事務所を訪ねた。戸田某が面接して、長とのあいだに種々応答がとり交された。渡良瀬川沿岸の農民は十年鉱毒という原因を知らないでいたが、昨今の惨害はかくかくであると長が説明すれば、戸田は果して、それは洪水の被害であろう鉱毒はそんな遠方に及ぶものでないと首をふった。除害策を促せばなお急務ではないとうそぶいて相手にしなかった。
長はもはやこれ以上談合することの無益をさとって口をつぐんだ。帰郷のうえ大いに運動を試みねばならぬと、深く心を刺戟されて下山した。
かくて六月中、前記三カ村の有志たちによって「足尾銅山鉱業渡良瀬川沿岸被害事情」と題した印刷物が、沿岸の村々へ配られた。これには早川及び長の報告とともに、古在教授の分析表が掲げられていて、「右の圃地に植物の生育せざるは、恐くは土壌中銅化合物を存在するに因るならん」と添え書があった。なお毛野村大字北猿田の渡船場の水の分析も採録されていて、「右の成績に依れば本水は亜硝酸、銅、安謨尼亜等を含有するに付飲用に適し難きものと認定す」とあった。これは前年の十月中、早川が宇都宮病院に分析を依頼したものの結果で、調剤局長大沢駒之助の署名があった。
「産業時論」を主宰する横井時敬に有志たちが被害地の視察を乞うたのもこの頃である。横井は被害地を巡廻しておおいに農民に同情を寄せ、数カ所に講演会をひらいて彼等の覚醒をうながした。帰京後は農村問題、社会政策の見地から輿論を呼び起そうとしたが、ほとんど耳を傾けるものがなかった。
このとき、栃木県第三区(安蘇、梁田、足利三郡)選出の衆議院議員田中正造は、群馬県人左部彦次郎を助手として独力で被害調査に着手していた。左部は当時まだ東京専門学校(早稲田大学の前身)の学生であったが、すでに昨秋以来、正造の命によって大島村の小山孝八郎方に滞在して調査をすすめる一方、土地の有志と請願のことについて議を凝らしつつあった。
さて足尾銅山とは如何なる鉱山であろうか。このあたりで、その沿革にふれておく必要がある。
旧記によれば、慶長十五年に当時の足尾郷の農民で治部、内蔵という両名がはじめて鉱脈を発見し、領主の日光座禅院座主の許しを得て試鑿したのにはじまるということだが、明治十年代になってなぜ鉱毒の被害を見るようになったのか。それにはそれだけの理由がなければならない。
治部、内蔵が試鑿してみると、翌十六年には多くの銅鉱を得たので、これを真吹銅として将軍家に献上した。時に家光の着袴の式が挙げられる際だったので、これを吉事としてそれより銅山は幕府の直轄となった。同十八九年の頃は江戸、大阪、長崎に会所を設けて、産銅の五分の一を和蘭へ輸出するまでになった。その後さらに延宝四年から貞享四年に至る間に、吹床三十二座を設けるに至り、爾後約十年間は年々三十五万貫から四十万貫を製銅した。
ところが宝永元年にこの地方に大洪水があって、四囲の山々から溢流する出水のために銅山の建造物、人家、銅鉱、溶滓、廃鉱等ことごとく流失した。だが、幕府から普請料が下付されて、同五年に江戸城修築用瓦として銅板百二十万六千四百枚余を製出するまでに立ち直った。享保三年には火災があって、足尾の家屋千数百戸すべて灰燼に帰した。
こうした幾変遷ののちに元文初年ごろから、ようやく収支が償わなくなって、年一年と経営困難に陥ってきたので通用銭鋳造のことを歎願した。一厘銭の裏に「足」の字があるのがこれだという。
明治元年の三月、幕府銅山の役所が引払いとなった。日光県、のちには栃木県の管理で明治四年に至ったが、同五年にはじめて民間の手に移って、大阪府人野田産蔵の借区となった。ついで七年には長崎県人副田欣一に、十年には福島県人志賀直道に名義が移された。志賀直道は相馬家の旧家臣で、主家のために個人名義を出して表面に立ったのだが、その裏面にまったく別の人物があって足尾の稼行が着手されたのであった。ではその裏面の人物とは誰か。
京都の小野組が瓦解したのは明治七年である。当時小野組は政府の御用金や各府県の為替御用を扱っていて、殖産興業という名目で貸下げられた無利息無抵当無期限の金を広くいろいろの事業に注ぎこんでいた。ところが政府の方針が一変して、官金預り高に対し相当の担保物件を入れよというにわかの厳達だった。小野組はこの火急に備える余裕がなくて破産したのであるが、同時に相馬家からの預り金も返済できない始末になった。そこで、代償として越後の草倉銅山が小野組から相馬家へ引き渡された。
そもそもこの小野組に鉱山事業を創させたのは、別家格にすすみ東京の支店を支配していた古河市兵衛であった。市兵衛は主家の没落に遭って、拮据経営の事業がもろくも灰滅に帰したのは、根本が他に依存しておったからであることを身を以って痛感した。彼は独立して事をなすべく日夜肝胆をくだいた。その結果まず相馬家に帰した草倉の下受け家業をやることから出発した。これが明治八年のことで、のちに相馬家の旧藩士のうちに、主家が鉱業のような浮沈の多い事業にかかわることに異論をとなえるものがあったので、市兵衛はこの草倉を買受けた。九年には旧高松藩松平家から羽前の幸生銅山を買収し、十年にはさらに相馬家及び渋沢栄一との共同ということで足尾の稼行にのりだした。だが、これも経営の実際は、すべて市兵衛の手中にあった。それ故まもなく相馬家及び渋沢の権利を譲り受けて、名実ともに足尾を一個人の手に掌握した。明治十九年のことである。
なにしろ足尾は慶長年間から掘りつづけてきた鉱山である。その坑口が八千八口あるといわれたほどで、まるで蜂の巣も同然だった。しかも過去数年はほとんど廃坑になっていた。鉱山師仲間も古河がどこに見込があってあんなボロ鉱山に手を出すのかと嗤笑したし、彼の周囲にも諌静の声がしきりだった。
だが、市兵衛は、古い歴史をもつ名山だからというだけを唯一の根拠として、しかも確信あるもののように入山した。人気のない坑内はたださえ無気味である。まして旧幕時代に掘り荒らした旧坑は落磐や湧水の箇所も多く、一歩踏みこめば鬼気せまるばかりに凄惨だった。鉱夫たちさえ尻込みしてその取り分け作業を嫌った。そこで市兵衛は敢然と先にたって入坑し、鉱夫たちを叱※(「口+它」、第3水準1-14-88)しはげまして着々と仕事をすすめた。備前※[#「金+盾」、U+934E、13-上-9]山の山腹の旧坑が、明治十年から息をふき返したのはこうした次第であった。
市兵衛は草倉、幸生両山の収益を挙げてこれへ注ぎこんだが、なお十三年頃までは容易に将来の見込みもたたなかった。だが、それに屈する彼ではなかった。後年「運、鈍、根」などといって、いかにも商人出身の実業家らしい体得を自他ともへの箴言としていたが、彼にもそうした信念を確めるだけの修業時代があったのである。
市兵衛の人間をもりたてたのもその根であるが、彼の事業の大をなさしめたのも根であった。彼はその根気で猛然と足尾の岩磐にぶつかった。坑長を代えること三回、ついには甥の木村長兵衛を起用して四代目の坑長とした。すると、この長兵衛がまたなかなか精悍な気象で、ために一山の志気がふるい立ったというほどである。無論そのためばかりではないが、十五年以来備前※[#「金+盾」、U+934E、13-下-3]山の下底をさぐる開鑿方針で掘進していた本口坑道で、十七年五月に横間歩※(「金+二点しんにょうの通」、第4水準2-91-29)の大直利に当った。これが足尾を隆盛にみちびく端緒となって、翌十八年九月には大通洞の開鑿に着手した。即ちその坑口の選定されたのが、本口坑からさらに八百二十尺の下部、渡良瀬川北岸の和田ヶ淵である。
この十八年から足尾の産銅額も急に多くなった。十五年の二十二万斤から十六年には百万斤、十七年には三百八十万斤という工合に年々累進していたが、十八年には六百八十万斤を産するに至った。さらに二十一年末、古河が仏蘭西に勃ったシンジケートの世界的の銅買占に応じて三カ年間に一万九千噸提供の契約をむすぶに及んで、足尾の操業はまた一段階を飛躍した。この間に間藤発電所が竣工されたが、それでもなお遠からず動力の不足を来すおそれがあるほどだった。すなわち二十二年には八百余万斤、二十三年には九百七十余万斤、二十四年には一千二百七十余万斤という産銅額の数字によっても、その急速な発展ぶりを覗うことができる。
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第二章
明治二十四年十一月、第二議会のために上京中であった田中正造は、開院式のあった翌日の二十七日に、日本橋八重洲河岸の旅館みつよしで突然父の訃報に接した。そこで倉皇として栃木県旗川村小中の実家へ帰り、二十九日には埋葬のことをすませた。父庄造は享年七十七、正造は五十一歳であった。
村道に面して建てられた隠居所の一室には、仏壇の前に一基の新しい白木の位牌がすえられ、供花の黄菊が強くにおっていた。それを照らす蝋燭の火が、まだそのあたりに、死者の存念が残っているとばかりにゆらゆらと揺れていた。隣室の煤けた畳の上には、一昨日まで父の庄造が病み衰えた痩躯をよこたえていたのだし、まだ今日の昼間まではその棺がおかれていたのである。
氷室おろしの凩が、山は雪かと思われる鋭い唸りをたてて木立に吹きつけるのが聞えたあとは、ひとしきり屋棟が軋みつづけた。それがやむと二階で寝ている親戚の人たちのいびきが洩れて、沈々と夜の更ける気配であった。やがて、裏の母屋の方から足音がして、ガラガラと戸障子があき、正造がもどってきた。身長五尺二寸、体重二十貫の重味で古い畳がみしみしと鳴った。正造は線香をたてて位牌の前へ端坐し、浄蓮院富翁大徳清居士と口のうちにつぶやいてややしばらく項を垂れていたが、傍の行燈のそばへ座を移すと、袴の膝に嵩ばった白い風呂敷包をのせて解きだした。
「私はさきへやすませて貰いました」隣室から妻のかつ子が声をかけた。
「うむ、うむ、わしにかまわずやすんで下さいよ」正造は他人行儀な丁寧な言葉遣いをしたが、途中から気がついたのかぞんざいにいい足した。「連日連夜のはたらきで疲れただろう。遠慮なく寝なさい」
正造は指先に唾をつけて書類をめくり、暗い火影へ差しつけるようにして読みたどった。
「あなたも今夜こそ早くやすまなくては……、ゆうべも一睡もしなかったのだし……」
「明日は議会がある。……総理大臣の施政方針の演説がある日だ。それで早く起きて東京へ帰らねばならん」
正造は書類から目を放たず、いい訳でもするように答えた。
「それなら猶のこと、今夜はもう寝なくてはいけませんでしょう」
「いや、わしは一晩や二晩寝ないでも平気だ。そんなことは毎々のことだ」
いいだしたら後へは退かぬ気性である。それに今夜は頑固からばかりでなく、なにか思いつめたことのある様子なので、かつ子も蒲団から脱けだして冷りとする着物に手を通した。火鉢を正造のそばへ運んで炭をつぎ、小さな髷をかしげて火をおこしだした。正造もやっと書類を膝へおいてそれを見ていたが、
「お蔭でわしも無事に父上を見送ることができた。心からお前に御礼を申します」
その言葉が、余りに真率なひびきなので、かつ子は思わず顔をあげてまじまじと正造を見返した。しみじみと礼の言葉をかけられたことなど嘗て覚えのないことだし意外だった。明けても暮れても政治の奔走で、おそらく家庭のことなど眼中にはないのだろうと、恨むどころか、もはや何十年来まったく諦めてきた。だが、何もいわず何も知らぬようでいて、やはり私の苦労をすべて見透していてくれたのだ。十一年の年月病身の舅にかしずいて来た人知れぬ労苦も、今の一言で報いられたも同様である。そう思うと、気のゆるみで、未だ嘗て夫の前に見せたことのない涙がおのずから膝へ落ちた。
「実をいうと不用意な不覚なはなしだが、葬式の費用をどうしたものかと、わしはそれを心痛して帰って来た。ところが、来てみると万事ゆき届いてやってくれている。六十三円ばかりの金があるから当座のことは十分間に合いますと、お前からその言葉をきかされたときには、全く心の裡で手を合せた。だがお前はいったいこの費用をどこから工面したのだね。それを聞こうと思いながら、昨日も今日もゆっくり話をする隙もなかったが……。原田か」
原田とは正造の妹の夫で、かねてから隠れた後援者であった。かつ子は火箸で灰をつつきながら、
「定助さんも必要なだけ遠慮なくいってくれ、再三そういってくれましたがお断りしました。またおりん様からも御心付の内談がありましたが、先年お母さんの亡くなられたとき御厄介になっていますから、今度は余分だけはお断りしました」
「では、いったい……」
正造がますます不審顔をするのを、かつ子はチラリと見返して、
「十一年前お父さんが病気になられた頃から、内証で私が心がけていたのです。毎年米六斗ずつ水車場の栄吉さんに預けたのが、十年積んで六石。この代が一石七八円平均ですから、ざっと四十五六円。それに利が加わって六十円余になったのです」
「ふーん」
「そういっては何ですけど、家計が年々逼迫する一方ですし、お父さんは何時どういうことになるかわからないし、あなたのお留守中にもしものことがあって、世間に恥を曝すようでは申訳ない。そう思って私は……」
さすがに万感が胸に迫ってきたのか、かつ子は歪んだ顔へ襦袢の袖をつまみ出してあてた。正造もまた、ポタポタと落ちる涙を拭おうとせず、ただ項垂れて言葉もなかった。黒袴のひとところがしみのように濡れてにじむのを、かすむ目で見つめていた。しばらくして、
「わしのような親不孝者はない。自分でもつくづくそう思う。母親の死に目にも会わず、また今度も父親の臨終に間に合わず……」
そういって、憮然とした顔つきで腕組みをした。十七年前、嘗て奥州江刺県の属吏をしていたとき、正造はたまたま同僚殺害のあらぬ嫌疑をうけて、明治四年から七年に至る足掛け四年の間を獄中に送ったことがあった。四年ぶりにようやく寃罪がはれて釈放されたが、その出獄より三十三日前、三月九日に母はすでに鬼籍に入っていた。正造は、一時は悲歎にくれて青天白日の身になったことさえ怨めしく思ったほどだった。その後真犯人が縛についたことを聴かずして今日に到っている。この不快の念もまた、亡き母を追憶するたびに、胸に蘇ってくるのである。
「それは……」と、かつ子は同情に堪えぬもののように※(「臣+頁」、第4水準2-92-25)を引き「あなたの場合は場合がちがいます。いちがいに親不孝とばかりいえません。お父さんも最後はもう昏睡状態でしたし……それに平常からあなたのことはもう、家にいない者と観念してみえました。その点ほんとうに偉い方でした。正造の一身は大勢の方のために差しあげた体だ。村の衆にもよくそういっておられました。また村の衆が枕もとに集ると、何処であなたの演説をきいたというような噂話をさせて、それを聴くのが、一番うれしそうでした……」
それは正造の苦衷をなぐさめようとする惻隠の響であった。だが、正造はかえって感慨をそそられた様子で、その三角の眼をすえて行燈の明りを見つめつづけた。――丁度十二年前、父が六十五、自分が三十九の年であった。父の膝下に一書を差し出して「正造、お願いがあるのですが……」と歎願に及んだのも、やはりこの火影の下である。そのとき父がどんなふうに許諾を与え、しかも後顧の憂なく自分を志すところへと踏み出させてくれたことか――それを思って、正造はあたかも父の面前に手をついているような敬虔な面差しで膝を揺った。
そのときも、父がその書付を行燈に翳して読みたどるあいだ、胸を躍らせながら、ジジ……と油のもえるこの音をきいたのだった。書中にはこんな箇条書があった。
一、今より後自己営利的新事業の為め精神を労せざる事。
一、公共上の為め毎年百二十円ずつ三十五カ年間の運動に消費する事。
一、養男女二人は相当の教育を与えて他へ遣わす事。
自分の能力は、偏癖で、一方に営利事業にたずさわりながら一方に政治のことに奔走することは不可能である。寧ろ自分の務は政治改良のことに専心するにある。心底からそう決意したのであって、そのこと自体に就いては父の許しを得るに難くないと思った。養男女云々も、夫婦のあいだに子がなかったからかつ子の甥の文蔵と、原田の妹のたけ子を養子にしていたので、この処置にもさほどの異議もあるまい。ただ難色が予想され彼自身でも気が負ける思いだったのは、第二の箇条である。正造は前にも漸く二十台の頃、領主六角家の払奸事件に奔走して家産を傾けたばかりでなく、数百両の負債まで残した。江刺の疑獄を出て帰郷して以来は、鋭意その負債の返済につとめて、ようやく家産をも旧に復すことができたばかりである。これを今また一家の事情をかえりみず、もう一度財産を犠牲にする許しを得ようという身勝手な願いである。正造の杞憂も実にこの点にかかっていた。
だが、父は正造の書いた文章を声に出して読みだしたのである。――正造には四千万の同胞あり、このうち二千万は父兄にして二千万は子弟なり、天はすなわちわが屋根、地はすなわちわが牀なり。――紙片を膝において正造を見すえた父の顔には、喜色さえ動いていた。
「お前にしてはできすぎた文句だ。志もたいへん結構だ。だが……」
年齢の錆がそのまま言葉の重味となっているような落ち着いた響だった。正造は思わず唾をのんで次の言葉を待った。
「古人も謂うは易く行うは難しといっている。果してお前に、どこまでも素志を貫く覚悟があるか」
正造は膝を乗りだして答えた。
「江刺獄中の三年有半は、私に嘗てない勉強の時間を与えてくれました。私は毎日毎夜のように、人間の生存の理由、人間の価値、人間の使命というようなことに就いて考えたのでした。そうして自分の命を自分のものと思うのは不遜なことだと気がつきました。人間に生れた尊さ有難さに思い到って、慄然と身ぶるいしました。自分の生れたのは父母のお蔭であり、国のお蔭であり、天地のお蔭である。人間の生存はこれに報いるためである。そう考えてくると人生の価値は絶対無限だとわかって、獄中でいてもたってもいられぬ思いを味いました。自分が自由のからだになったら、良知良能の教えるところに依って、身と魂の限りを尽して働こうと、そう心に契ったのでした。ですが、やはり獄中で偶※(二の字点、1-2-22)ウエリントンという偉人の伝記を読んで、その人が戦々兢々負債を恐れるという一節に、私はひどく胸を打たれました。自分はたとえ嫌疑の獄を免れ得ても、身はなお義務の獄中にある。この獄中にあるあいだは自分は到底志を伸ばすことはできない。そう覚ったものですから、この数年はこの義務の獄を免れるために努力しました。そうして、やっと不覇独立の身になったと思ったので、こんなお願いもするわけです。決して昨日今日の決心ではありません」
「だが人間の心は弱いものだ。自分が正当に理解されない場合には誰しも不平が起きやすい。どんなに自分が世間のために尽しても、世間が冷然とそっぽをむいているばかりか馬鹿にされるようなことになれば、必ず不平が起きる」
父はそこまで杞憂してくれるのかと、正造は胸を搾め木にかけられる思いだった。
「自分のすることはすべて天に尽すのだ。そう思ってやれば何事も不平は起きまいと思います」
それを聴くと父は、傍の硯箱を引きよせて禿筆の先をかんだ。やがてすらすらと半紙に筆を走らせた。――死んでから仏になるはいらぬこと生きているうちよき人となれ。
某禅師の作だという。正造は一読、二読、自分にとって実に適切な箴言だと思った。しかも目にみる父の手跡をとおして父の情が測々と胸に沁みてくる思いだった。
――十二年前のその夜の情感が、正造の胸にまざまざと蘇った。それは昨日のようにあざやかであった。父が筆先をかむ仕種や、墨のついた唇でニヤリとする面影まで、行燈の蔭にうかがえるような気がした。
「親ほど有難いものはない……」
正造は溜息を吐くように洩らし、間をおいて同じ言葉をくりかえした。同時に、この長い年月、家を外にして狂奔するままに父を顧る暇さえなかったことが、悔恨のかげりに彼をさそうのであった。
かつ子がかたわらで袖を顔にあててくさめをした。暗い火影を受けて物哀れに見えるその姿へ、正造はなにか消えうせたものを探るような目を移し、
「あれから、何年になるだろうかな。わしが二十四、お前が十六、まだ慶応にならぬ前だったから……」
それは二人が結縁の古い昔をいっているのだった。正造は指おり数えて、自分の指の動きに不思議なものでも眺める顔付だった。かつ子もそれにさそわれて指を折り、
「二十七年……」と呟いたが、急に古い記憶をもみ消すような仕種でその手をすり合せ、「本当にもう爺婆になるはずです」
「なるほど二十七年になるか……この長い年月つれ添って来られたのも、みんなお前が諦めて辛棒してくれたお蔭だと思っているが……まったく、お前もわしに見込まれたのが最後というわけだったな。あのときは、お前が上石塚から裁縫に通う途中をそのまま家へ連れてきてしまった。……羞しがるお前を無理やりに負籠に入れて背負ってきたが、橋を渡ってこちらの橋詰へ来て、わしは急に婚礼の支度をせねばならぬことに気がついた。そこで籠を外へおいてあそこの雑貨屋へ走りこんで、婚礼にはどんな品物が入るのか知らんが、すぐ必要だから大いそぎで一揃えとりそろえてくれ。そういっても、雑貨屋のおやじは本気にしない。誰が嫁をもらうのか、嫁さんは何処の誰だといらぬ穿鑿するばかりでニヤニヤしている。誰でもない、わしの婚礼だ、嫁さんはあの籠のなかに待たしてあるというと、さすがにおやじもびっくり仰天していた。ハハハ……」
「嫌らしい、なんの話かと思ったら、つまらないこと……私はもう本当にさきへやすませて貰います」
かつ子が噛んですてるようにいって腰を浮かせるのを、「ちょっと待ちなさい」正造は手で圧えるまねをして引きとめた。「またといっても、ゆっくり話し合える機会などいつのことかわからない。今後お前はどうするつもりか、それを聞いておきたい」
自分は今後とも東奔西走の忙しいからだである。到底家をかえりみる暇はない。お前はお前で暮しの立つようにして貰わねばならぬというほどの言外の意味があった。
「ええ、それはもう覚悟しています。どうせあなたは阿弥陀さまより尻の落ちつかない人だと思っていますから」
かつ子は淋しげに頬をゆがめて微笑した。村道を隔てた向う側の杉や梅の木立のなかに古びた阿弥陀堂があり、本尊の阿弥陀像は一年を通して村中の家々を順ぐりに転々することになっているので、お堂のなかはいつも蜘蛛の巣だらけである。だが、その阿弥陀様さえ毎月の二十三日だけは必ずお堂へ帰って安坐する。かつ子は、それをもって正造を諷したのだった。
「ハハハ……」と正造は笑いにまぎらして唐突に「ところで、わしの考えではあの母屋の方をゆくゆく篠崎さんに差しあげたいと思っている」
母屋は隠居所の傍の黒い門を入って、柿の木の下をくぐった奥に建っていた。父の庄造が割元、正造が名主をつとめていた頃の名残りのもので、昔の格式としては簡素すぎる造りだが、黒ずんだ梁も柱も未だがっしりしていた。この母屋へ篠崎医師を住まわせたのが明治八年、正造が岩手県から帰郷した翌年のことで、隣村の油屋から頼まれてその番頭になるとき、一つには耳順の父を託すために特に小中出身の篠崎を聘して無賃で提供したのであった。その父も今は鬼籍に入ってしまったが、なお継母のために、また村のために、正造は篠崎医師に住みつかせたいと意中を語った。
「そうですとも」とかつ子も心から同意した。「私はこの隠居所だけでたくさんです。ここで今まで通り村の人に雑貨を売っていれば、どうにか暮しも立ててゆけます」
決して後顧の憂はいらぬと、はっきりした返事をきいて、正造も満足そうに瞬きした。なにかいおうとすると、つづけざまに大きな嚔が出た。裏の浄蓮寺の杉林に騒いでいた凩が、ゴーッと雨戸に迫って、行燈も仏壇の蝋燭もまたたいた。
「ずいぶん冷えてきました。さア、寝ることにしましょう、本当に風邪をひきますよ」
「いや、いや」と正造は洟水をすすりつつ「わしはこれからもう少し……例の渡良瀬の鉱毒のことで大事な調べごとがある」
「ひどいそうですね、今年の被害は。舟津川辺などは稲がほとんど一粒ものぼらなかったとか」
「実際その通りだ。鉱毒は沿岸一帯にひろがってしまった。去年の洪水以来大島村に滞在して調査してもらっている左部彦次郎さんの話では、あの辺も今年はやっと騒ぎだして、よりより除害の方法に頭をひねっているそうだ。だが、この毒はなかなか人民の手で容易に取り除けられる毒ではない。毒を流す根本をやめさせなければ駄目だ。それでこの際どうしても鉱業停止の請願書に大勢の連署をとって、村長たちから農商務省へ願い出る。わしはまたそれに呼応して国会へ質問書を出す。そういう手筈になっている」
「一昨日ですか、衆議院の門の前であなたに会わせろといって暴れた壮士がいたそうですね」
かつ子は急にそれを思い出して、眉根をひそめた。だが、正造はそれに答えず、聴き手が妻だということも忘れたように、
「去年は県会が建議案を出したが、県会のうちには足尾銅山のお蔭で利益を得ている地方の議員もいるし、問題を闇に葬ろうと策動している者もいるから駄目だ。一方、被害民が県庁へ請願してもこれも埒があかない。こんなことでは、この火急を要する事態が何時解決されるかまことに覚束ない。事実、一栃木県下の地方問題ではなし、どうしてもこれは国会を通じて広く世間にも訴えねばならん。またこれこそわしの責任というものだ」
「政治むきのことは私によくわかりませんが、農家を思えば本当に気の毒です。あなたがその決心なら、思い通りに存分にやって御覧なさい。お父さんは見送ったし、あなたにすればもう後に気に懸ることはないのですから……お位牌は私の息のあるあいだは大切に御守り申します」
「うむ、それだけはお前に頼みますぞ」
かつ子は立って、仏壇の蝋燭をとりかえ、それから静かに寝床へ入った。寒々と凩のひびきをきき、足をちぢめて眠る様子だった。
正造は行燈の火をかきたてて、再び書類を取りあげたが、瞳はただ宙をにらんでいるだけで、脳裏に去来するものは、自分がこの秋数回にわたって見てまわった被害地の蕭条たる天地だった。ああ、なんという惨状。――瞼をとじると、慚愧にちかいものが胸を搾めつけてきた。過去十年の自分の努力が、なにか無駄ごとであったような気持さえする。自由のために、民権のために、立てよ、立てよ、と連呼して毛野の村落から村落を走り廻っているあいだに、いく度か渡良瀬を越え来り越え去っているあいだに、徐々に、そうして着々と、今日のこの災禍が準備されていたのである。――正造の思ったことは本当であった。彼が民権運動にささげた十年の年月は、その蔭で、彼と新にまみえるべき闘いを、ひそかに用意していたのであった。
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第三章
十二月二十四日の午後、正造の登院はやや定刻に遅れた。議案を片手につかんで議場正面の扉を押した一瞬、場内の妙に粛然たる気配が面をうった。
見ると真むこうの壇上に、逓信大臣後藤象二郎が巨躯を悠然とかまえていて、口角へかぶさった霜毛の髯の下から一言また一言と、いかにも荘重げな声を放っていた。――まさに私設鉄道買収費について原案維持の演説中である。正造には、満場の議員が唯々諾々と後藤の脚下に拝跪しているように思われた。もちろんそれはその場の情景から受けた一瞬の錯覚にすぎなかったが、正造は丸い肩にあらわな敵愾心をみせつつ、後藤とむき合った距離を颯々とちぢめていった。人々の視線はいっせいにその剣かたばみの大きな五ツ紋を抜いた黒羽織にそそがれた。正造は、最前列左側の四番の席へきて、エヘンと大きな咳払いをして腰を下した。今まで鳴りをしずめていた議席がどっと笑い声にどよめき、つづいて正造をまねた咳払いがあちらこちらに起った。廊下などで後藤の姿を見かけてさえ正造が大声あげて罵ることを人々は知っていて、二人の顔が合えばかならず事件が起きるものとして、市井のものが路傍のいがみ合いを見るごとき無責任な喝采をなし、二人に贈るに大象小象の綽名をもってしていた。だが、そうした場合も正造の罵倒は決して私憤からではなかった。後藤の政治上の進退にあきたらず、変節を悪む余りであることを知るものは少なかった。
後藤の降壇を追いかけて改進党の高木正年が質問をくりかえし、後藤を再三再四答弁に立たせて応酬数刻に及んだ。永田定右衛門がたまりかねて「この議場は後藤大臣と高木君の討論場にあらず」と大声をあげる始末だった。が、高木はなおも執拗に喰いさがって許さなかったが、ついに「いくらきいてもだめですから質問をやめます」と叫んで着席し、満場を一瞬シンとさせた。ついで粟屋品三が禿頭をふりたてて登壇すると議場は道化役者をむかえたように早くも笑声に満たされた。「諸君!」粟屋が一声あげるとドッと哄笑が湧いた。「私は鉄道買上げは賛成の一人である」言葉の下から「ごもっとも、ごもっとも」弥次がとぶ。「私は鉄道株は一株も持たん」またも哄笑、「故にわが田に水を引く論では決してありません」また哄笑、一言一句の区切りごとにワッワッという騒ぎであった。その騒ぎのあいだに後藤はいつか大臣席から姿を消していた。議席の動揺がしずまると「島田三郎君」、議長、中島信行のこえがひびいた。
呼ばれて島田は自席に突立ったが、「私は弁論を放棄します。その理由をこの席から述べさせてもらう。私は昨日総理以下三大臣に出席を求めておきました。議場に臨むは国家に対して大臣の尽すべき責任である。今日はさだめし出席あるものと信じ、且つそれを冀望しておったのですが、ただ後藤大臣だけが出席して演説されたにすぎない。その演説にしてからが聴くだけの価値なきものと私は断言する」議席一面にヒヤヒヤの声が湧き起った。島田は平静に一同のしずまるのを待って「本案賛成の有力な議員は粟屋君一人である。而して内閣を代表して演説した後藤大臣も今や去ってその席にいない。内閣は自らこの重大問題を放棄した傾きがある。敵のいないのに矢は放てない。もはや弁を費して討論する必要がなくなったが故に、私は弁論の権利を放棄する」
まさに吏党の発言にとどめを刺したのであった。ただちに採決に入った。その結果は「私設鉄道買収法案否決さる」の新聞号外となって、鈴の音が町々をとんだ。
院内では文部省所管の議事に移り、つづいて農商務省の所管に入ったが、そのときはすでに定刻の五時も過ぎて、「今日の議事おわり」と叫ぶ声さえきこえた。
だが、正造にとってはいよいよ緊張を要するときである。農商務大臣陸奥宗光が、痩せた体にぴったりと食いこんでいるような洋服姿で壇上へすすんだ。
「事業費を減殺せんとするのは、とりもなおさず予定の事業を短縮するもので、国家の利源を妨げ国庫の収入を減ずるというよりは、むしろ国民全体の利益を減殺するものであります。民力休養の主義をもってこの減殺をなさるるならば、おそらくその目的に背馳するでありましょう……」
陸奥は烱々とひかる眼光を左右の議席へそそぎかえつつさすがに貫禄を示して鋭く説きすすめた。あとを受けた西村政府委員は、ただ大臣の説に追従するのみで精彩なく、それの肥満した和服姿までが妙な対照だった。小間粛が予算委員として修正の説明に立った。それが終ってようやく正造の番がきた。正造は両手でぐいと席を突いて立ち、階段の一段ごとに陸奥をにらみあげながら登った。
「農商務省へは先日質問書を出しておきましたが、足尾銅山のことに就いて、七日になりましても未だ御答弁がない」もの静かな口調でまずその不誠意を咎め、
「……議院法にはただちに答弁をする、ただちにできなければその理由を明示するということがある。本費にかかる前に、大臣御出席であるから一応そのことを申されて然るべしと思う。お答ができなければできないでよろしい。猶またお尋ね申す順序があるのでござります」
心の裡に決するところがあるものの如く、正造は丸い肩をひねって陸奥の方をキッと睨みつけた。それからおもむろに向き直って、
「ただ今、私の意見を述べますのは、つまりこの修正案を賛成するにすぎないのである。……この第一款の四項の旅費ということについて、西村君は大層な御論をなされてござりますが、これは鉱山取締上に欠くべからざる旅費であると聴きましたが、或はお間違いがあればあるとおっしゃって下さい。鉱山の取締ということはわが農商務省は少しもしていない。鉱山の取締は何処をしている。このことは別に質問書が出ているからここで議論をいたしますと重複になりますから、この点だけ明らかに申上げておく。それで先に質問した事を答弁があれば、鉱山の取締がないということを陳べるつもりである。鉱山の取締がないのに鉱山に往復する旅費を渡すというは如何である。甚だしきは原案の全部ならば承知するというは、実に生意気の議論といわざるを得ない。実に無礼千万の議論である」
笑声がしきりに湧いた。正造は一段と声を張りあげ、
「また寸分も減ずることはできないというが、寸分とは何事だ。金銭の多寡の寸分というのか、時間が一時一分というのであるか。政府は鉱山の監督を急ぐ、然るに人民が塗炭に苦しみ、所有の田畑がなくなってしまうという有様があっても、これをなぜ寸分という字に当てはめない」
正造はここで言葉を切って、
「また大臣の演説にも、倹約をなるべくするが、行政の活動を政費節減のために妨げられてはならぬ、この費用の伸縮は発達を害するということがあった。……どういうことを農商務では倹約とするか、この山林区の費用など、寧ろ私一己の考えをもってすれば勿論悉く削除したいくらいである……」
と切り込み、栃木県下の山林三千七百町歩を当時郡長をしておった安生順四郎に、草山という名義で不当の払下をした例を挙げて難詰した。正造が拍手の裡に降壇すると、苦い顔で腕組みしていた陸奥が痩躯を起した。
「ただ今、田中君の御質問のはじめに、同君より予て質問書を出している、何故に返答が遅いかという御催促でありました。その返答は何時でもするつもりで即ち今日も書類を持っている。今日もこの通り議長に返答いたしましょうと思いました。或は明日でも答弁いたします」
陸奥はあくまで冷静な態度で眼下の正造の席を見やり、改めて言葉を継いで山林払下について弁明を試みた。農商務省で管轄する山林は六万町歩もある中だから、安生某にどういう山林を払下げてどうであるか、帳面を繰って見なければ確ということはできない。原野と称するなかにも相が変って木のある原野もある。なお山林という中にも木のない山林があると同じであると、巧妙に受け流して降壇した。
二十五日もひきつづき農商務省第三款の議事であった。すなわち鉱山監督署費である。正造はこの日も登壇した。
「……草山というものは草の生えた山で、木のある山は山林というぐらいのことは、三歳の小児でも知らなければならぬ。安生順四郎に払下げた三千七百町は、隅から隅まで木が生えている。その払下は五百円で、一万八千円は一寸借りのできるくらいである。この一万八千円は足尾銅山の古河市兵衛が炭を焼いて売って一カ月二三百円の利益があった、この金を返済したのである」
と、まず昨日の陸奥の答弁を揶揄し、
「拙者の質問書に未だお答のないのは鉱山の一件である。今日は何故お答がないのである。昨日は明日お答するといって今日何故お答がない。お答ができないならばできないとおっしゃればよろしいということを、昨日も申している」
正造は足を踏み変えて大臣席を振り返ったが、今日は未だ陸奥の姿を見出すことができなかった。ただ西村政府委員が、昨日正造に手痛く叱責されたことを根に持っているのか、むっつりとして控えていた。
「その答によってまだまだ議論もいたしますが、この予算会も非常に急ぎますから、私はこの事件について細かなことは申しませぬ。種々の統計もありますし、且つ分析表もありまして数時間を費さなければ演説ができない。とにかく、群馬、栃木両県の間を流れる渡良瀬川という川は、鉱山から流れる鉱毒で双方の沿岸の田畑を併せて千二百余町に害を被らしめている。この千二百町余もある大切な耕作地面が、二年も三年も穀物が穫れないのである。ことに昨年の二十三年は一粒ものぼらない。のぼらないのみならず物が生えないのである。斯のごとく重大な事件である。この重大な事件を一向知らないでいる。鉱山の規則を見よ。鉱山の規則を御承知なければ私が読んで聞かせるが」
議場にどっと笑声が湧いた。正造は頭陀袋のようにふくらんだ懐から書類をつかみだしたが、それはそのまま卓上において、さらに語気鋭く大音声をつづけた。
「日本坑法には何とある。また鉱業条例には、農商務大臣がその営業を停止することが出来るということを明記してあるにかかわらず、斯のごとく如何に古河市兵衛の営業がその本人に利益あるものにせよ、いやしくも租税の義務を負担している人民、いやしくも害のないこの土地に住居を定めた人民に、斯のごとき害を与えることが見えないというのは何事である。……魚を捕って売ろうとすれば警察が喧しくいって毒を食った魚だから売ってはならぬといった。それは明治十三年頃からのことである。人民が県庁へ願いにゆく、群馬県、栃木県の人民が皆これを調査して県庁へ何回行くか知れない。不思議にもまた内務大臣の方でもこれが見えないものとみえる。或は農商務とどういう打合せがあったか知らぬが、かくのごとく己の管轄に農商務省鉱山の方から人民に害を与えられていることが、内務大臣にも亦これが見えない。何故こう目が暗くなるんである。何かそれだけの不思議なことがあるだろう。道途の説にはいうに憚ることがある。また農商務大臣は古河市兵衛に伜をくれられ親類であるからと、――まさか国家の大臣たるものが、斯のごときをもって公務を私するものでないということは拙者も信じている。しかしながら、こういうことを人民がいうときは何をもってこれを弁解する。この下にいるところの県会や郡長が人民の害をなしてこの請願の道を塞いでいるというようなことは、如何にもありそうなことであろうと思う。この鉱山の三款などは立派にこれを削除してよろしい」
満面に朱をそそぎ腕をふりまわして怒号していた正造は、そういってぷっつり言葉を切った。同時に湧きかえるような拍手であった。正造は紋付の袖を振って、しかも眉に一抹の哀切な愁を漂わせつつ降壇した。席に着いてまた大臣席をふり仰いだが、ついに最後まで陸奥の姿は見出せなかった。
正造があげた陸奥と古河との姻戚云々は決して風説でない。市兵衛はその主家の小野組が為替御用を勤めていた関係で、明治五年にあらたに大蔵省租税頭に就任した陸奥と相識った。時に陸奥は二十九歳、市兵衛は四十一歳であった。一は利刃、一は鈍鏨、一見して性格の相反する二人はどういう点で意気投合したのか、翌六年には陸奥の次男潤吉を市兵衛の養子とする約を結ぶに至った。ところが、明治七年に小野組が瓦解して、市兵衛は落魄の身となった。陸奥は、このとき市兵衛を鞭撻して「自分は君を信じて愛児を与える約束をした。今日、君を信ずることは毫も往時と異らぬ。人の窮達は日暮をもって測るべからずである。須らく再起の計をなしたまえ」といった。そののちに明治十一年六月十日、突如陸奥は元老院幹事の職にあって拘囚された。大江卓、片岡健吉、林有造、竹内綱等例の土佐派の政府顛覆陰謀に気脈を通じていたことが探知されたからであった。陸奥は表面にこそ立たなかったが、事実は隠然たる首謀であった。市兵衛は翌年はるばる山形の獄中にあった陸奥を慰問し前約を果すことを迫ることによって以前の情誼に報いたのであった。その結果、十三年二月に潤吉は実家を去って古河家へ入った。潤吉十一歳の時である。入籍はやや遅れて陸奥が出獄後の明治十六年五月に実行された。両人の間には実にこうした因縁が潜んでいた。
なおその出獄後まもなくのことである。陸奥は地方漫遊の途次たまたま日光に杖を曳いた。そのとき、彼は翠微を展望しつつ傍をかえり見ていうには「下野の山川は風光明媚だが、風景は経済に用のないものである。山は高きが故に尊からずである」と。当時の県会議員塩谷道博、小峰新八郎の両名からこれをきいて正造はながく記憶にとどめていた。
さてこの農商務省の第四款第五款の修正案が成立して、議事はついで逓信省所管に入った。後藤大臣の演説が終ると、たちまちその足もとから破れ鐘のような声が起った。「議長々々」挑戦の気配もあらわに正造が突立っていた。後藤はそれを一瞥しつつ扉を排してコソコソと退席してしまった。
大臣連は一人もその席に影を見せなかったが、しかし民党の面々には大臣の欠席などに頓着なかった。政府案をもみつぶすことあたかも破竹の勢で、逓信省所管もまたすべて査定案通りに採決した。だが、そのとき何故に大臣席がもぬけの殻だったのか、彼等はそれから数時間後に思い知らされた。大臣連の姿の見えなかったのは、一同が総理大臣官邸に鳩首して重大評議をしていたからである。議会が午後六時五十分に散会して、民党の議員たちがそれぞれ意気揚々と宿舎へ引きあげた丁度その時刻に、一方松方総理大臣は宮中へ参内するために悠々と砂利道に馬車を駆っていた。
八時をどのくらい過ぎた頃であったろうか。燈火のついた議院の議事課へ、平山書記官長が深刻な顔付で入ってきた。室々を廻って議長をさがし歩いて来たのである。彼は議長の姿を見るとつかつかと歩み寄り、黙って紙片を手渡した。衆議院解散の勅令であった。議長は、ややしばらく無言で感に打たれたように目をすえていたが、
「一刻も早く知らせるべきだ」とにわかに倉皇としだした。
早速に居残っていた書記たちが呼び集められた。通知状を刷るためにたちまち腕まくりで蒟蒻版の刷にとりかかるもの、封筒の表書を認めるもの……そら紙だ、そらペンだと給仕が追い使われた。まもなく三百枚の蒟蒻版がすりあがり、小使が配達に動員された。それぞれ小使たちをのせた人力車が掛けごえも勇ましく市内各処の議員たちの宿舎を目ざして宵闇に消えていった。
あたかも日に日に加わる院内の闘争の険しさと、政府が議員買収の実をあげつつあるという風聞に刺戟されて、東京には地方党員が続々と集結していた。彼等は議員の宿舎を襲って欠席によって逃避しようとする者を駆りだし、また院外に詰めかけて議場に於ての向背を牽制していた。それゆえひとたび解散の声がつたわると各政党の事務所にはこうした人々が、それぞれ昂奮して集まって来た。またその騒然たる物情に乗じて夜の街には酒気を帯びて慷慨悲歌するものや、婦女と見かけて悪戯をするものなど、えせ壮士輩の徘徊も目にあまるものがあった。
正造が解散の通知を受けて南鍋町の改進党事務所へ馳けつけたときには、すでに多数の党員が集まって各所の火鉢をかこんで声高に放談していた。殊に最前衛として戦ったこの党の気勢は同志集合によってあがっていた。誰の顔にも解散を悲しむ気色など見られず、むしろわが党の威力をこの証左に見たといわぬばかりの気負いが、彼等を昂奮へ駆りたてていた。正造は人々のうしろに座をしめると黙々と腕組みしつつ目を閉じていた。なにごとか独り深く考え沈んでいる様子だったが、突然けわしく目をむき体を乗りだして怒鳴った。
「この大馬鹿野郎、同志の間でなんということをぬかす」
人々は、その大声にびっくりして一斉に口を噤んだ。
「また田中君の馬鹿野郎か……」興げな顔付で睨みかえす者もいた。高田早苗が腰を浮かせてとりなし顔に「樺山の例の拳骨演説の話じゃないか。なにも藪から棒に怒りだす理由はないよ。あの雑言を侮辱と思えば腹も立つが、実はわが民党の気勢に怯気づいた余りの虚勢だ。藩閥の悲鳴だ。そういって罵倒していたのさ。それがどうして君には気に入らんのか」去る二十二日の予算本会議のときである。樺山海軍大臣が「世人は薩長政府といって政府を嫌悪するが、今日までよく国家の安寧、社会の秩序を保持したのは誰である!」と卓をたたいて叱※(「口+它」、第3水準1-14-88)したから、議場はたちまち喧々囂々となって議会開設以来の混乱に陥った。いわゆる樺山の拳骨演説として民党議員が誰しも憤慨しているところであった。
「いや、そうじゃない」正造はなお憤激のおさまらぬ顔で首をふった。「誰のことか知らんが、樺山の配下の奴に料理屋や待合へつれこまれたと同志の誰かを中傷しておった。わしの耳は聾じゃない。ちゃんと聴きましたぞ」
「それは田中さん、ちがいますよ」と地方党員らしい老人が手をあげて弁明した。「樺山海相はこんどの予算案を通そうとして、ずいぶんいうを憚るような暗中策動をやった。自由党のなかにはその餌に尾を振った犬みたいな奴もいるが、却ってその陋劣手段に反感を抱いて政府攻撃へ廻った者もいる。私はそういう巷間の説をここでただ受け売りしたまでです」
「そうか。わしはまた蔭で改進党の誰かを誹謗したのかと思った。天下国家を憂うるものが婦女子の言動をすると思ったから腹が立った」
「やっぱり聾の早耳の部類だよ。そんなことを聞けば誰も黙って放ってはおかない」
前にいた加藤政之助がふり返って笑った。
「これや、わしが悪かった、すまなかった」
正造はもうそれで釈然とした顔付になって腰を下した。腕組みして、また別人のように黙々と瞑想に入るごとくであった。一座もまた次の総選挙の予想などに話題を移して、にぎやかな話し声になった。内務大臣品川弥二郎は前の山県内閣のときにも、解散を断行して御用党をつくるべしと裏面から献策した男だ。彼にすれば第一議会に山県が小心で行えなかったところを今度みずから遂行したにすぎない。当然の結果としておそらく極度の選挙干渉をやるだろう。誰の予想もそれに一致していた。
それをききつつ、正造の胸は、他の者の思いおよばぬ別箇の憤りと憂慮に痛んでいた。鉱毒の件について、議会でなお訴えようとしてその機会を失ったことが一である。当局の責任ある答弁をきき得なかったことが二である。被害民たちに徒らに困窮をつづけさせねばならぬことがその三である。
そこへ島田三郎が、鼻の両わきに八の字の皺をよせた影深い表情で入ってきた。彼は正造を認めると真直ぐにかたわらへきて、
「きょうの鉱毒の演説には敬服しました。たいへん結構でした」
正造はニコリともせず瞼を開いたが、相手が島田だと認めると、目に親しみをたたえて、
「いや、いや、自分ではまだまだいい足りない、不十分だったと思っています。なにしろ時間の余裕がなかったので……解散になるのだったら、もっと存分にやるんでした。……いや、いや、あなたは例によってもっと忌憚ない批評をしてもらわねば」
「私の方の記者も感心して明日の議事余聞に書いたといっておりましたよ」
だが、田中はそれには無感動な様子で黙っていた。島田はさらに言葉を継いで、
「あれこそ言々肺腑から迸ったというのでしょう。いう人に誠実がなければああは人の胸を打つものでない。或は田中君は鉱毒問題を一身に背負う覚悟じゃないのか。私は聞いていてそう思ったくらいだ」
最後の言葉をきくと、正造はギクリと胸を引き、底光りする目差しで島田をじッと見つめた。島田はその動揺に気付いたとも気付かなかったとも見える態度で話題をそらし、
「未だ官報は見ないが、見てて御覧なさい。政府は解散の奏疏で、必ず罪をわれわれ民党に転嫁していますよ」
「そうでしょう」と、正造も深くうなずき「濃尾震災補助の議決まで故意に延引させたというのでしょう……だが、われわれは政綱の末を争ったのではない」
「まことにそうです。われわれは彼等の政治的道念の誤りを矯正してやるつもりで戦ったのです。……未曽有の政体が成り立って、人民はこれによって良い世の中がくると多くの望を嘱しています。それが前議会もあの通りの汚点を残し、つづいての議会もこのていたらくで、立憲政治の出発に於て、政府は運用の範を垂れるどころか、ことごとく悪例を残しました」
胸の底に痛みでもあるような沈痛な声を洩らし、島田は静かに田中のそばを離れて行った。
翌朝の各新聞はひとしく解散を報じ、各政党の動静をのせていた。島田のいった毎日新聞の「議事余聞」の欄は、「議会の鉄骨男」と題して正造の事を「百万の生霊が現時困頓疲弊の光景を代表明示して、綿衣破帽自らその標本となって、議院に出席し云々」と書いていた。
各新聞によって解散の奏疏が人々の目にふれたのは二十七日のことであったが、果して議会が理由もなく緊急を要する決議を遅延させたと詰り、職権を濫用して行政機関の運用を妨げたと難じてあった。
さらに二十九日になると、官報附録をもって農商務大臣の名で鉱毒問題に対する答弁書が発表され、これが各新聞にも転載されたが、――一、渡良瀬川沿岸の耕地に被害のあるのは事実だが、その原因は未だ確実な試験の成績に基く定論でない。二、各専門家が試験調査中である。三、鉱業人はなし得べき予防を実施し、なお独米から粉鉱採聚器を購求新設して、一層鉱物の流出を防止する準備をした。――大要このような形式的な答弁であった。
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第四章
佐野の選挙本部にあてられた村山半の門先には「田中正造君万歳」と墨色をにじませた大旗が、竹竿を撓ませつつ鳴りはためいていた。正造はその下をくぐって、いずれも草鞋ばきに仕込杖という出立ちの近郷の有志たちと挨拶を交しつつ庭石づたいに奥座敷へ通った。その混雑の通りすがりに、井戸端の板葺屋根の下に洗い米の笊がいくつも積重ねてあるのが、目に痛いほど白かった。来る途中被害地で、折れ伏した枯稲が刈りとられもせず薄氷にとざされていた光景がよみがえって、ひそかに苛責にちかいものを覚えた。
これよりさき正造がまだ滞京して各所の政談演説会に臨んでいるとき、早くも栃木県第三区青年団体の名で「我三区衆議院議員候補者として民軍の驍将たる田中正造君を撰定す」という広告文が新聞に載りだした。正月早々、佐野町春日岡の総宗寺本堂に安蘇郡の有志が集合して衆議一決した結果である。当日、近郷の各町村から駆せ参じたのは、村山半、津久居彦七、蓼沼丈吉、湧井藤七、関口忠太郎、川俣久平、寺内清次、島田雄三郎、新井保太郎、藤沼友次郎、板橋六郎、川島治平、青木清蔵、吉岡耕作、天海浜吉、内田卯三郎、栗原喜蔵、岩下喜右衛門等の百余名いずれも正造の民権運動時代からの同志というべき人々で、嘗て彼の組織した中節社や改進政学党の社中だったものも多い。
矢の催促で帰郷をうながされていた正造がようやく姿を現したのである。奥座敷に集っていた十数名はざわめき立ってむかえた。床の間よりに席をあけると、彼等は正造に挨拶の暇もあたえずに郷党の情勢をきかせた。探りえた情報によると木村半兵衛の立候補はほぼ確実だというのである。
「新聞のあれは虚報ですか。民党同志の逐鹿をさけるために、改進党と自由党が前議員を再選するように申し合せをしたという……」
この家の主人村山半が中央における党の動静を詰る調子で質問した。
「うん旧蝋から島田君などがしきりにそれを奔走しているが、まだ折衝中だ。わしも極力島田君を鞭撻してきた。民党同志がいたずらに牆にせめいでいては、いつまでたっても藩閥を倒すことはできない。困るのは人民ばかりというわけで……」
沈痛な声を途中できって正造は顔を曇らせた。
「いやそれは木に縁りて魚を求むるたぐいだ」県会議員の川島治平が太い眉をうごかしていった。「とても党の統制など行われやしない。げんに一区など星亨が立って横堀三子と同志打ちをやるというし、すでにどの区でも混乱が予想されている」
「木村は自由党を標榜するということだが、大義名分をわきまえているやつなら、この三区から立てるわけのものじゃない」天海浜吉のこえだった。
「そうとも仮面自由党さ。こっちで吏党とみなして撲滅するだけのことだ」
正造を座に加えて人々の談論はいよいよ激色をおびてきた。
「事実、やつは純然たる吏党だよ」と隅の方から膝を乗りだす者がいた。「木村も以前どれほどの資産家だったか知らんが、今日では整理の後で知れたものだ。ところが例の山林払下げの安生順四郎から運動費が廻る。それで一昨年の失敗にも懲りずにまた立つのだというから……」
「いや、それのみでない」と村山が引きとった。「陸奥のさしがねで、妨害の運動費として古河からも出る。田中さんに暮の議会で鉱毒問題を手ひどく追求されたから、また議会でそれを繰り返されては困る。どうでも田中を落選させろと相談がまとまっているらしい。運動長は新井章吾、榊原経武、参謀長が佐野常民あたりだということだ。現に宇都宮警察では前回の選挙には誰に投票したかと戸別にきき糺させているというから、やがてわれわれの区にも魔手がのびてくるにちがいない」
座敷うちが急に暗くなって、人々の目の光が異様に険しくなった。
「なにしろ知事が公然と、政府の意を体してなるべく手心しろ、もしその辺の動きができなかった場合は免職だぞ、そういって訓辞したそうだ。われわれもよほど褌を締めてかからねばならん」
川島がそういいつつ障子を押しあけ「やア、霰が降りだしたぞ」と呟きをのこして便所へ立った。俄かにたかまった霰の音に、一座は心のたかぶりをおさえかねる顔付で霰にたたかれる庭先に目を注いだ。正造はまた眉根をつりあげて簷先の黒雲に眼を放っていたが、「なんの必要で警察がそんな調査をするのか。そんな怪しからんことを横堀君はなぜ黙っているのだ」
正造の憤慨は例によって手桶の水をぶちまけるような勢だった。
そのとき庭からどやどやと四五名の若い者が勢込んで入ってきた。筒袖に袴のもも立ちとったもの、股引に草鞋がけのもの、いずれも長い刀を腰にぶちこみ、赤い顔を霰にうたせて昂奮の目差しである。先頭の男が縁ちかく寄って直立不動の姿勢をとり、
「会場にもう聴衆がどんどん詰めかけています。開会にするから弁士の方に来ていただきたいということです」
「まだ開会の時間には早いだろう」村山がきき返すと、
「でも聴衆が早くしろと騒いでいます」
「よろしい、早くてもでかけよう」と正造がまっさきに袴の裾をふんで立ったが、立ち去ろうとする若者たちのうしろから、「君等は、なぜそんな物騒な支度をしているのか」
「はア……」
傍から村山がとりなすように「いつ敵が妨害にくるかもしれんというので、若いものが用心のために持ちたがるから黙認してるんですよ」
「うん」とうなずいて正造は庭の方へ大声で「防衛のためなら致しかたないが、万が一の場合にも必ず兇器の使用は避けなければならん。選挙の運動にそういう手段が入るのは憲政の精神に反することだから」
正造たちが門前に立ちでると、先刻の若者たちが軒先にはためく大旗をとって担いだ。霰はやんだが暗い空に黒々と雲が動いて、吹きつける風が膚を刺すように痛い。それぞれに顔をしかめた人々の姿はなにか悲壮な闘争を行く手に暗示されつつ敢えて出発してゆく一群のように見えた。総宗寺の山門をくぐると、本堂にあふれて高縁を埋めていた人々がまず拍手してむかえた。ただちに開会となり、六七名の有志が起って時事を論じ政治を談じて気勢をあげた。最後に正造が起ったときには、すでに夕闇が迫り、寒気も一段ときびしくなっていたが、聴衆はかたずを呑んで正造の語りだす声にきき入った。
「諸君、私はさきほども栃鎮々々とよぶ声をききました。これはこの正造に対する親しみの愛称だと心得ております。私もまたこの本堂に起って話をするのを決して他人のところで話をするようには思っておりません。諸君の家へいって、諸君の家の座敷か囲炉裏端で話すような気がするのでございます。私とこの総宗寺とは実に因縁が深い。諸君のうちには嘗てこの場所で私と語り合った方が相当おありのはずです。又そうでなくても諸君の祖父とか、父とか、或は兄とかいう方々とここで顔を合せているにちがいない。私は今から十数年前に、西郷南洲が兵に斃れること、また大久保甲東が暴殺にあうことを予言したところが、それが間もなく、いずれも的中した。そこでその的中にうぬぼれた結果、政治の改革に一身を犠牲にしようと決心したのでした。しかしこの正造は予言者でもなんでもない。天から才能を与えられた男でもない。学問、あるいは徳行のある者でもない。ただ真心ひとつを以て世の成行を見たからして偶然に的中した。それ故にうぬぼれて政治改革に志したというものの分を忘れはしない。自分の力の及ぶことと及ばないこととは心得ている。ですから、この前の第一回総選挙のときも、私はもう私などのでる幕でないと思った。私はなが年、自由と民権のために東奔西走してきたが、いよいよ私たち人民の希望した国会が開かれるとなれば、それで私の務は終ったのだという気持でした。もうこんな無学無能の田舎おやじに用はない。議会は新しい識見をもった若い人々の運用に俟たねばならない。それで私はわが栃木県第三区からは島田三郎君のような人物に出て貰いたい、そう思って意中にあの人を描いたくらいです。島田という人は政治上の働にすこしも暗い影がない、ちゃんと胸に道念があって、それによって身を処している人だからでございます」
正造を推すために熱弁をふるった人々はもとより、運動の関係者はいずれも、正造が変なことをいいだして、火に水を差す結果になりはせぬかと怪しんだ。だが、演壇の声は滔々と流れた。
「ところが残念なことに、島田君は縁故のふかい神奈川県第一区から立候補することになった。それで私は次に意中に描いていた野村本之助君に交渉した。この人については御存じの方も多いでしょう。やはり島田君と同じく、嚶鳴社といって沼間守一という人の社中の一人、明治十五年に私がこの人ならと島田君と同じく惚れこんで、栃木新聞の社長兼主筆として無理やりにきてもらった人です。その時が僅か二十三の弱冠でしたが、まことに謹直でゆかしいところのある人柄でした。当時野村君は一年ばかり私と辛酸をともにされたのですが、新聞社でも私の前では皆があぐらをかいて話をしていたものが、野村君が出社するとキチンと襟を正すという工合で、野村君と私とではこうも品位の高低があるのかと深く感心したものです」
聴衆のうちからクスクスと失笑の声がもれた。正造はしかしいよいよ本題に入ったという気勢で、
「野村君はそういう人となりだから、これまた固辞して受けず。そのうちに期日も迫って結局私が立つほかはなくなった次第でした。ところが今度の選挙に於ては、私の心境はまったくこの時とはちがっております。当時はひたすら憲政擁護のためという建前から新しい識見のある有能な士にでてもらわねばならぬと思ったのでした。その憲政擁護をおもう念に変りはないが、今回はまたここに差し迫った問題ができましたために、ぜひ私自身が議会に出て輿論に訴えねばならぬ必要が生じたのであります。それはなにか、諸君も御承知の、この渡良瀬川沿岸の千二百町歩の田畑が二年も三年も穀物が実のらず、鉱毒のために荒廃し、この土地の人民が流亡に立ち到ろうという実に容易ならぬ事態のためでございます。これは勿論渡良瀬川沿岸という一地方の問題ではない。国家的の問題でございます。それ故直接に害を蒙っているこの地方の人民は、自分たち兄弟親類縁者のためにもこれを世に訴えねばならぬし、国家のためにもこれが解決の義務があるのでござります。然るにこの地方の人々自身今日どんな考えでいるか」
正造は言葉を切って、暗い聴衆の頭上をにらみ渡し、それからまた縷々として鉱毒被害の恐るべき徴候と、人民に与えられている請願の権利について説きつづけた。
かくてこの演説会を第一声として連日連夜の活動が開始された。第三区三郡中の安蘇郡は従来から正造の根拠地であった。その地固めもひと通りの巡回でまずととのった。次いで選挙の天目山は梁田郡であるというので衆議の結果、正造は旬日ののち梁田の事務所へ移った。するとその日、近在の村長たちが集ってきて、次のようなことを正造に訴えた。
旧蝋おしつまってからのこと、梁田郡役所からの呼びだしで村長たちが揃って出向くと、郡長の樺山喜平次から懇談があるという。何事かと怪しみながら待っていると、やがて郡長が現れて尊大ぶった態度で、被害民と鉱山側との仲裁を取り計ってやるとの口上、しかも九カ条からなる契約書をつきつけ、指図されたものだと威圧的だった。
古河市兵衛は粉鉱の流出を防ぐために明治二十六年六月を期して粉鉱採聚器を設置する。二十四年から二十六年までは被害の多少にかかわらず徳義上示談金をだす。そのかわり契約人はその間に何等の苦情を唱えることはできない。――村長たちはそうした箇条書きを黙読したが、真意が那辺にあるものか解しかねた。そこで篤と相談の上で返事すると答えて引きとった。正月二日に各村の有志二百余名が会合して評議した。いろいろと異論がでて紛糾したが、結局強硬意見が座を制した。除害の方法をもっと明らかに取り定めたうえ、対等の契約を結ぶなら仲裁に応じよう。さもなくばたとえ郡長の仲裁といえども承服しかねる。そう返事することに一決した。
こもごも語る村長たちの訴えをきくうちに、正造の身内に憤りがみなぎってきた。――すでに古河がそんな魔手をのばしだしたか。鉱毒の声に恐れをなして、除害の方法も採ろうとしないばかりでなく、事実を覆って闇に葬ろうとの策動だ。しかもその手段といえば、私のために妄に官権を動かしているのである。知事や郡吏たちが、これまた古河の前に唯々諾々、古河の奴隷たるにあまんじている…。正造には村長たちの思案顔がもどかしくてならなかった。なぜこの侮辱的な文句に憤りを発しなかったのか、なぜ即座に決然と拒絶しなかったのか、それが歯がゆかった。いや不審だった。しかし正造は顔色をやわらげて、
「対等の契約ならと返事したのは大出来だった。こっちの田畑を不毛にしておいて、徳義上かねをやるとは何ごとだ。徳義とはそんな身勝手なものじゃない。……今後もまた手を換え品を換えて籠絡にかかってくるにちがいない。目前の小利に目がくらまぬように、そんな者がでないように、どこまでも諸君が一致して奸策陰謀の撃破に当らねばならん」
村長たちを或は教え訓し或は激励して、正造は選挙のことなど忘れたふうだった。村長たちの帰った後も、この話は選挙の間じゅう正造の胸のしこりとなった。しかしまた敵は木村半兵衛と思うよりも、わが敵は古河市兵衛と意識することで、かえって幾層倍かの勇気が湧いた。北空が晴れて、丸岩、熊鷹、氷室の連山が額に近々と迫って見える日など、あの山奥が敵の巣窟だと睨みつつ枯田の吹きさらしの中に佇むこともあった。
日を経るにつれて、日ごとに県下の混戦が報ぜられた。したがって県会議員たちもそれぞれ去就について苦境に墜らねばならなかった。どこの選挙事務所でも、県会議員の動静が知れわたるたびに論難が行われた。星派と目された持田若佐、塚田峰三郎が横堀を援けるべくその陣へ馳せたのは、私情をかえりみず大義に拠ったものであると讃えられた。広瀬孝作、川島長十郎、早川忠吾が木村の幕僚となるために県会議員を辞したのは、私のために公を棄てたものであると非難された。去年の十一月末、政府と議会との衝突の機がようやく切迫したときのこと「万一の場合に立至り候も吾々同志は誓て貴下のために努力し飽くまで念望を貫かんことを期す。希くは之を諒せよ」と県会議員一同の連名で、県下選出の諸代議士を鞭撻したことがあった。この信任状が彼等を自繩自縛に陥れつつ向背の混乱となったのである。しかしそれが当時全国選挙区の範として語り伝えられたことだけに、正造には今日この結果がいかにも残念だった。わが郷党の道義感の衰退を天下に曝けたように思われてならなかった。
その頃のある日、北部の山村を受持つ北郷の事務所から栗原喜蔵の息子の彦三郎が使いにきて、三里の道を走り通してきた様子で、肩あげのついた肩に息切れを打たせながら父の手紙をさしだした。正造が封を切ると、木村派が選挙人へ配布したという印刷物が入っていた。一月二十五日の日付で、
「拝啓陳者総選挙の期日も最早切迫致候。彼の厳冬酷暑を冒し郡内を奔走せし位の事実を以て揚々とし或は殊更に民力休養を唱え政府の提出案とし云えば利害損失をも調査せず、一も二もなく否決に雷同するが如き代議士は国家の不為と奉存候間今回は是非共実業に慧敏なる沈着家を御撰出相成様尽力被下度為国家奉企望候頓首。足利郡有志者」
暗に正造を貶したものである。木村派がいよいよ官党の本性をあらわしてきた感が深かった。少年が瞳をかがやかして傍からまた報告した。
「敵のやつらは、旧のお正月へかけて伊勢参宮をしないか、旅費は持ってやる。そういって村の者を勧誘しているそうです」
正造は指折り数えて、
「なるほど投票日は旧の正月十七日にあたる。有権者を他郷へつれ出して棄権させようという腹だね。うまく企んだものだ」
と左右を顧みて笑った。
一月も末ちかくなると、選挙戦は全国的に白熱化してきた。それを証拠だてる殺伐な消息が、この地方にもとりどりに入ってきた。中に就いて自由党の発祥地である高知県下の動静はものすごく、県の長浜村では戸ごとに貼札して「遍路乞食及び吏権党遊説員は門内に入るべからず」の文句をかかげたという些事さえ、小気味よいでき事として喧伝され、同じく高知県佐川村で、吏党派と自由党派が抜刀し発砲をして乱闘を演じ、数名の即死者をだしたという血腥い事件が、各地の興奮をいやがうえにも駆りたてた。一方こうした物情騒然の結果として、二十八日には予戒令が公布された。するとその運用が地方官の手ごころに委ねられているところから、人々はまた疑惑の念をもってそれをむかえた。浮浪人となして壮士の跳梁をとりしまるというが、その実は民党を制圧する苦肉の策であると取沙汰された。
たまたま二月二日に田中派の県会議員川島治平、山口信治、玉生嘉寿平の三名が突然家宅捜索をうけ、山口はなんのためかその場から拘引された。郡吏や警察官が隠然木村派を援ける証左であると、人々は火に油をそそがれたように激昂した。二月六日、田中派はすでに梁田郡西部を手中に収めえたので、余勢をもってすすんで敵の本拠を衝くことになった。しかも木村半兵衛の居住である小俣村へ乗りこんで政談演説会を開き、敵の心臓を震えあがらせてやろうというのである。この日は暗雲が頭上に凍りついて、渡良瀬川原の川風は肌を刺すばかりであったが、「田中君万歳」の大旗をまっ先に吹きなびかせ、田中正造をはじめ県会議員横尾輝吉、川島治平、天海浜吉をなかに挟んで、八十余名がいずれも草鞋ばきの出立ちで隊伍を組み、二日前の残雪を踏みならしつつ進んだ。
演説会はここも村寺で開かれて、聴衆は広庭にあふれてひしめいていた。横尾、川島ほか数名がこもごも立って木村派を完膚ないまでに攻撃すると、さすがに敵の本拠である。「ノオ、ノオ」の声がしきりに起り、足を踏みならし、板戸をたたき、怒号するなど、妨害は次第に激しく、殺気立ってきた。それと見て臨監の警部がついに解散を叫んだ。しかし、田中派は目的の過半を果したので、罵倒のこえを尻目に勢揃いして意気揚々と引きあげた。その帰途、山前村へさしかかる三ツ叉へきたときである。木村派の三百余人が肩を怒らした壮士たちを先頭にして道を塞ぎ、罵詈をあびせ、石を投げ、さては傍の木の上から小銃を空射ちして威嚇した。味方もさすがに色めきたって応戦の気配が動きすわ乱闘とみえたが、正造などが声をからして制止するうちに、十数名の警官が馳けつけてようやく無事に物別れとなった。木村派は足尾銅山の坑夫や上都賀郡の博徒等区外の者五六百名を金銭で雇って動員しているということだった。
然し、その夜しんしんと雪の降りつもる深更、ついに両派の間に暴力沙汰の端をひらくに到った。田中派の山田外十名が足利郡を運動して佐野への帰途、吹雪に難渋しながら、おぼつかない薄明りに積雪をふんでいると、どこから後をつけて来たのか、不意にうしろから「改進党の壮士まて」と声がかかった。こちらも咄嗟に敵とかんじたので「無礼者め」と叫んで踏みとどまった。霏々とふる雪にすかして見るとうち重った黒影が四五十、たちまち雪つぶてが飛んできた。石が飛んできた。田中派は一斉に仕込杖を抜きつれ、無言の疾走に殺気をはらんで突進した。その勢にさすがの敵方もピストルをうち放ち、みずからの木霊に怯えながら逃げ失せた。
越えて八日には、川島治平、増田代三郎が小俣村の演説を終えての帰り途、阪西村を過ぎたあたりで二百余名の暴漢にとり囲まれた。多勢に無勢、木剣や棍棒でさんざんに殴られたあげく、増田は両足をひきずって川の中へ投げこまれた。この日、一方では木村派が安蘇郡へ侵入してきて、田沼の亀鶴座で演説会をひらいた。田中派は七百余名で押しかけて、半兵衛の演説を「ノオ、ノオ」の声で弥次り倒した。そのうえ川俣久平たちは、木村が正造を慢罵したといって控室へ押しかけた。この始末はまた木村派の深くふくむところとなり、川島、増田の遭難も要するにその余波であった。
九日には、田中派はまたも敵の本拠というべき山下村で懇親会をひらいた。全村の有志五十余名を集めて、応援の横尾輝吉、左部彦次郎等が席上演説をするうちに、門前に木村派の者が押し寄せてきた。夕刻ごろにはその数は七八百名に達し、塀のそとをぐるりと包囲してしきりに罵声を放ちだした。障子をあけて見おろすと数カ所で酒樽の鏡をぬいて気勢をそえている様子だったが、やがて会場めがけてパラパラと石が投げこまれた。果ては薪を投げこむ音さえした。門内の田中派も演説どころではなくなった。もはやこれまでと観念し、血路をひらくつもりでサッと門扉を押しひらいて躍りでた。木村派もスワとばかり多勢をたのんで取り囲んだ。木剣の渡り合い、格闘、それをめがけて大小の石が無数に降りそそぐという騒ぎで、夕闇の道路はたちまち無残な修羅場と変った。
また同じ時刻に、葛生にひらかれた木村派の演説会に田中派の二千名が押し寄せて、ここでも両派入り乱れて刃傷沙汰に及んでいた。
こうして投票日が切迫するにつれ、両派の争闘は日ごとに殺気立ってきた。北部山間の閑馬村の栗原喜蔵が、自身にも再三負傷し、その部下に多くの負傷者を出したのもまたこの頃であった。さらに山奥の飛駒村はこの閑馬と投票所が同じで山越しで投票にくることになっていたが、木村派はしきりに流言を放って、木村に投票しないと途中の山中に待ち伏せた壮士たちのために半殺しの目にあわせるとか、田中派の家へ押しこむとか、脅迫がましい牽制を試みていた。栗原は飛駒の影山謙斎などが対策を練って、それに対抗するために投票の前日飛駒の有権者たちを閑馬村へ連れて来て、それぞれ親戚その他へ泊りこませることにした。それでもなお尻ごみしている者に対しては閑馬の有志が、馬を駆って二里三里の山道を一々かりだしに行った。
こうした大人たちの熱狂は子供にもいつか感染した。栗原の一子彦三郎なども小学校の作文に、「田中正造君を推薦する辞」を書いて、校長の叱責を喰うたりしたが、いよいよ投票日の二月十五日の朝にはまた、彼は未明のうちに五寸口の花火の筒を作男に担がせて裏山へ登った。それを松の大木に縛りつけ、倍量の火薬を仕掛け襤褸をつめこんで打ちあげた。地響きとともに凄じい爆音が暁闇をつんざいて轟いた。さすがに未だ子供である。彦三郎はその大砲のような豪壮さが愉快でたまらない。つづけて三発打ちあげて、それでもなお名残惜しそうに家へ戻った。村の気勢を示すつもりでやったことだが、祖父や影山などの老人連から危いことをするといってきつく叱られた。そこで彼は、今後は村の少年仲間を集めて蔵から小銃を持ちだし、道傍に標的をつくって射撃の練習をはじめた。朝のことで、炭俵や薪を積んで田沼へくだる荷馬車挽きが通りかかった。「おーい、おじさん」と、彦三郎はその馬車挽きたちを呼びとめた。
「閑馬ではさかんに鉄砲の稽古をしている。田沼へ行ったら、そういっていいふらしてくれよ。子供まで鉄砲を持って待ち構えているといってね」
そのときは、人々もただ子供の悪戯としか思わなかったが、はからずもこの喧伝が、意外な効果をもたらしたことが後にわかった。木村派としめし合せて村へ威嚇に来る手筈だった新井章吾の壮士たちが、その風説におそれてついに姿を見せなかったのである。
こうして閑馬村の投票はともかくも無事に終ったが、他の村々の投票所では今日を最後と暴漢が跳梁をきわめ目にあまる妨害が行われた。御厨村の村長田沼民二郎は、投票立会にでかける途中を襲われて顔面に打撲傷をうけた。久野村の高木清蔵もまた不意に切りつけられて額に負傷したまま一里の道を投票所へ馳けつけ、投票を終ってその場に昏倒した。しかし、高知県第二区のように投票凾を奪い去られるという醜態のなかったのを、まだしもとしなければならない。
なおこの選挙運動を通じて栃木県第三区の災禍は、以上のほか、須永某の獄死、越智脩吉、清水政吉の負傷、原田方の家屋破壊、佐野堀米両町久野村の放火事件等、枚挙に暇のないありさまであった。開票の結果は田中正造が七三三票、木村半兵衛は六四三票で、両派の接戦の跡はその数字のうえにも窺われた。
やがて全国の当選者が明かになったが、自由党九十四名、改進党三十八名、これに対し吏党はようやく九十三名を数えるにすぎなかった。しかもこの頭数を得るための選挙干渉が人心を刺激した結果は、全国を通じて死者二十五名、負傷者三百八十八名という言語道断な記録を残した。
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第五章
簷にちかい庭の若楓が青く影をうつしている廊下を前にして、障子をあけ放した一室から正造の大きな声がもれてきた。日本橋八重洲河岸の正造の定宿、去る五月六日に開会された第三議会が十六日より一週間の停会を命ぜられた、その休暇中の一日である。
二月の総選挙に行われた乱暴な干渉が全国到るところで流血の惨事を惹き起した結果、民意を抂屈し選権の自由を涜したものであるとの非難が囂々とおこったので、政府は輿論の鋭鋒をさけるために去る三月当面の責任者である内務大臣の品川をやめさせて、枢密院副議長の副島種臣を入れることに代えた。閣内で干渉の非をとなえていた農商務大臣の陸奥も辞表をだして、河野敏鎌が代った。しかし民党の各派はあくまで、政府を糾弾すべしとして互に反抗気勢を募らせていたから、政界の動きは会期のちかづくとともに殺気にみちていた。この気運はまず開会劈頭に選挙干渉上奏案となってあらわれた。十二日の議会にこれに対する賛否の発言通告をなすものそれぞれ二十六名と十九名、河野広中の説明演説を先陣として、およそ雄弁のきこえあるもので立って発言しないものはなく論戦数刻にわたった。殺気だった雰囲気のうちに採決となり、百四十六票対百四十三票とわずかに三票の差で否決された。この結果は民党それぞれの意外とするところだったが、それは再度の解散をおそれる心理が一部を軟論に傾かせたことと、裏面における袖手間の取引や吏党壮士の暴行威嚇が影響したためでもあった。しかし民党はこの失敗に憤激して十四日には更に決議案と形を変えて議事にのぼせ一挙に四十三票の多数で可決した。そこで政府はこの混乱に処するに停会をもって、不穏の政情に対抗せんとしたのである。
「……今度のことは前の失敗の雪辱といえば雪辱だが、どうも私などには手ぬるく思われてもの足りない」
「うん、それはそうだ、予め敵に果し状をつきつけて正々堂々と相見えるというのでなくて、いわば奇策だ、自由党の策だからな」
「松方総理が演説でいった。日本の国務大臣はこんな妄漠たる事実で軽々しく進退するものでないと。実際ただ将来を戒めるというだけのあんな決議じゃ、政府にとって痛くも痒くもないわけだ」
「わしもそうは思ったが、しかし上奏案になると穏かならぬ点があることにわしも気がついた。上奏して聖徳をおどろかし奉るというのは、まことにおそれ多い。それでなくても陛下は開会以来日々の議事について御軫念になっていられるということだ。その日その日の議会の模様を宿直の侍従から奏上させるにあるということだ。政府の責任はどこまでも糾弾すべし、しかしそれには立憲的な方法がある」
壮士風の男は正造の言葉に服して黙りこんでしまった。正造は袴の膝をおさえて立つと、床の間にころがしてあった日本刀を縁側へもってでて、スラリと鞘を払った。刀身に射翠がうつって目が覚めるようであった。
「どうだ。業物ということがわかるかね」
「銘は誰です」と無遠慮に手をだす相手へ、正造はただ切先をむけただけで懐紙をだしてしずかに拭いつつ、
「刀の鑑定ひとつでも、一日に十本ずつ怠らずやって十年でやっと正宗がわかるというくらいだ。選良連をみるがいい、なんの費目にも口をだす。だから無責任になる」
正造が鍔をならして刀を鞘におさめたのをしおに、客が席を立った。正造がそれを送りだして部屋にもどると、書類のいっぱいのっている机が庭へむけておきかえてあり、先刻は片隅にひかえていた山田友次郎と栗原彦三郎が再び手伝いの身構えでひかえていた。
「議会が停会のお蔭で、ゆっくり頭をやすめて質問演説の草案が練れると思ったが、時々邪魔が入るのではかどらない。もう休会も今日一日になってしまった、どれまた始めるか」
しかし正造はすぐには筆もとらず、桐の新緑に目をそそいでいたが、
「人間が心に反省して欺くことがなければ、罪悪というものは生ずるはずがない」卒然と独りごとのようにいいだした。「罪悪の原因はまったく外界にある。人の心がこの外界に引かれることを、孟子は良心を放つといった。斎の都城の郊外に牛山という山があって、この山も昔は樹木が青々と繁っていたのだが、絶えず乱伐に乱伐されて濯々たる禿山にされてしまった。しかしこの濯々たる状態が決して山の本性なのではない。孟子がそんな例をあげて説明している、足尾付近の禿山を例にとっても同じ事がいえる。あの岩々塁々たるありさまが山の本性ではないのだ。人間が禽獣のような行をしていても、その人に仁義の心がないわけではない。禽獣に類するようになるのは、つまり良心を放って※(「特のへん+晧のつくり」、第4水準2-80-23)亡するからだ。古河にしても、役人どもにしても、その良心を放ち、良心を見失っているから自分がどれほどの罪悪を犯しているかわからないでいる。で、ますます悪の深みへはまってゆく。――そこで孟子は尽心下で、心を養うは寡欲より善きはなしといって、この失われた良心をとりもどす工夫を教えている」
二人の少年は燈火をとって胸の裡へさしむけられたような驚きとおののきに瞳をかがやかして謹聴していたが、正造の言葉がとぎれると栗原が膝をすすめて、
「すると先生は孟子と同じ性善説ですか」
正造はキラリと目を光らせて「いや、無学なわしなどの力で、とてもとても先儒大家の説を是非することはできない。孔子も幽遠な言論をこのまなかったから、性の善悪について立入った穿鑿をしなかったから爾来三千年中国でも諸説紛々いまだに帰着するところがない。だが、人生にもっとも重大なこの性の善悪説をうやむやにしておくのは、わしには辛棒がならない。それでわしは自分流儀にいろいろ考えて、このごろではようやく性は善なりと断定する勇気ができてきたわけだ。それというのも耳学問で、沼間、島田、高田などの諸君の話から進化論というものを知って、おおいに驚きもし覚えるところもあったためだ。わしは進化論を聞いたおかげで、人間が太古から現代に到るまで一貫して一意向上してきた径路へ目をむけることを教えられた。おのずから善美へとすすむのが人間の天性でもあり本能でもある。中国の先儒たちも、もし進化論を知っていたらみんな性善を説いたにちがいない。わしはこの信念を得て自分の人間尊重の意志が日一日と篤くなるのをよろこんでいる次第だ。それを思えば不義不正の徒はいわば人間天性の破壊者である。人類進歩の逆賊である。こんな奴らはあくまで撲滅しなければならぬ。それをするのがわしらの務だ……」
そのとき塀のそとにけたたましい鈴音とともに号外売りの呼び声がきこえた。山田が立って買いに走った。やがて一枚の号外がもたらされたのを見ると、保安条例の施行をつたえるもので「第三回帝国議会開院中皇居三里以外の地に退去を命ず」という園田警視総監の命令書と多くの壮士たちの名が挙げてあった。
停会あけの五月二十三日に正造は早速「足尾銅山鉱毒加害の儀に付質問書」を提出し、翌二十四日に、質問演説に立った。まず北海道幌内幾春別の鉄道及び炭鉱の払下について、具体的に事実を挙げてその不正、その不経済、その不道徳を指摘し「われわれは天下のためにどこまでもこれを質問しなければならぬ。われわれは弾劾をこのむものではない。ただ政府に正直に答えてもらいたいというのである。遁辞や弥縫の答弁で天下公衆の耳目を掩うわけにはゆかぬ」と追及した。かくするうちに三十分余りも経過したので、壇上の正造も気がせくのか、あわただしく神戸造船所、釜石鉄山、小坂鉱山などの払下げの件に触れて政府の無方針を難詰した。最後にいよいよ目ざす鉱毒事件に入るつもりであったが、正造もさすがに余り長時間演壇を独占するのに気がひけた。そこで語気をかえて、
「諸君が時間を貸して下さるなら、私は足尾銅山鉱毒事件を質問したいと考えますが、あまり長くなりますから如何」
謹聴々々の声があちこちに起った。正造は意を得たもののごとく胸を張って、
「しからば申す」コップの水をぐっとあおり「これは昨年も概略を述べたのでございます。この足尾銅山は近来非常に盛大を極めて参ったので、従って山から流出する種々の害毒が流れでる。その川を渡良瀬川という。この川はいずれへ流れるかというと栃木県と群馬県の間を流れて下は利根川に落ちるのでございます。この川の沿岸の人民は数百年と申してよいか数千年と申してよいか、祖先来ここに住居している。その人民はこの山が繁昌して来て、その流す害毒のために、その土地にいることができぬ場合に立ち到った。これを憲法上から申しますと、法律の定めによって納税の義務を負担する人民が、この納税もできなくなって来たのである。かような場合に於ては政府はこれを処分しなければならぬ。一日遅く処分すれば一日害を被ることが多い。この土地がすでに千六百余町歩で、なお害の及ぶべき土地が甚だ多いという有様で不毛同様になっている。麦を蒔いても豆を作ってもこれが少しも生えないのである。県庁やなにかで試験場をこしらえ、これがどういう試験をやるかというと、二尺か三尺掘って土を上げて上の土を下へ入れてやることが一つ、もう一つは薪をおいてその上へ土をおいて悉く木を焼き直してやること、また石灰を一反歩に百貫も入れることなど種々ですが、なにしろ一坪や二坪のところならばそれもよろしゅうございますが、広漠たる地面に対しては容易になし能わざることである。しかしその手段をもって蒔きつければとにかく三四寸は生えることは生えますが、とても実のるなどというわけにはゆかぬ。それを試験場などは諸君のうちに招待状をだして、おいでになるとこの深耕法などを力を入れて講釈し、そうしてやればよいなどと実に迂遠なる話をするそうでございます。また鉱毒の試験も早くから栃木県でできている。この試験は誰がしたかといえば県立病院の薬局で月給八円か十円の者が調べたのである。ところが、昨年議会でやかましくいい、また地方の人民もやかましくいったので、その申訳のためか学士が来たり或は博士が来て試験したがこの人たちにはわからない。それで農商務大臣は昨年の答弁書で被害の原因について試験の成績に基ける定論がないといっている。なるほど今日の博士にはいろいろあって、なかには一山百文という博士もあるそうでございます」
ドッという笑声につづいて拍手が起った。正造はその間に息を入れてすぐつづけた。
「明治十二三年頃から渡良瀬川の魚が死ぬ、作物が実のらぬ、それで近傍の百姓は分析学もなにも知らないが、よく鉱毒を知っている。次に県庁の病院で分析してわかった。しかしそれから上にゆくとだんだんわからなくなる。農商務大臣になれば決してわからなくなる」
誰かゲラゲラと大声でわらいだして、しばらく笑声がそれにつづいた。「それで口実になにをいうかと申しますと、何か他に原因があるであろう。他の原因といっても物によることである。例えば煙突に煤が溜る。この煤はなんで溜るかといえば、下で薪を焚いたり石炭を焚くからだということは学問のないものでもわかっている。しかるに他に原因があって存するであろうという。煙草をのんで煙管に脂が溜ることも、他に原因があるというに同じである」またも笑声が起ったが、正造は息もつかず畳こむ調子で「しかるに農商務大臣になると、煙管に脂が溜るのは他に大原因があるだろう、渡良瀬川の鉱毒は他に原因があるだろうというのである。こういうことで世の中をごまかすことは、明治の今日お見合せになるがよろしい。お見合せになるがお嫌だとおっしゃっても、見合せさせてみせるというこちらに権利がある」正造は凄じい声で言葉を切ると、眼を怒らせて大臣席を見かえった。ついで川筋往来の船頭が水をのむと唇の色が変る、貧民が川の芥を拾って薪に焚くと手足や顔が荒れるという例をあげて、鉱毒の衛生上に及んでいることを述べ、
「まずこの毒は平日は川の底に沈んでいるのですが、これが一朝大雨のために一時に洪水を致しますと、水の勢が沈んでいる泥を波でおだって、毒水になって流れてくる。この泥水が流れたあとに泥をおくと、その泥には悉く毒をふくんでいるのである。それ故以前には水揚場と称してこの泥を冠ると泥が培養になったのだが、近頃はこの泥の一寸でも五分でも何ほどでもおかれたところは作物ができないようになった。植物においてもかくのごとく、衛生においてもかくのごとくなるものを昨年まで構わずおきました。これを議場で質問したところが、農商務大臣、これに答えた。その答の要領は二つ。一はまだ試験の成績がよくわからない。なんの害かわからない、或は他に原因もあるだろう、まだ調べ中だという。またもう一つは、毒を防ぐ器械を買った、二十台すえつけた、これから準備して毒の流れないようにするつもりであるという妙な答弁でござります。なにしろ自家撞著な答弁である。自家撞著でもなんでもよろしいとして、昨年十二月八日医科大学の丹波敬三氏が群馬県の水利土功会でなした報告にも、またその後本年二月農科大学の古在由直、長岡宗好両氏がふるって調査して栃木県で出版した報告にも、それぞれその害毒は足尾銅山にありというを憚らずといい、足尾銅山桃岩水の渡良瀬川に入るもの有毒物を含有すること事実なりといっている。鉱山のために斯のごとく毒があるときまった以上、一日も猶予しておくべきでない。今日現に実施している鉱業条例の第十条に、公益に害があると認めたときには、農商務大臣はその営業を停止するをうるという明文がある。はっきり法律に書いてある。それにもかかわらず、これを躊躇して今日にこの実行をしないで、数十万人の人民が生活に困りその処を離散しなければならぬ場合に陥ることも眼中にないというのは如何なることでございましょう。法律があり条例があってこれを実行しない政府が何処にござりましょうか。諸君も最も憂慮されておるのは外国条約である。条約改正を叫びこの居留地というものをもっとも恐れるのは何故でありましょう。わが国に法律ありといえども法律が行われないからである。しかるに、ことさら下野国、群馬県のなかに新奇なる古河市兵衛の輩が跋扈して新に居留地をこしらえ、法律ありといえども法律を行うことをしない。人民がいかに困弊に陥るとも農商務大臣はすこしも目に見えない。たまたま愚論をはいて曰く、『古河市兵衛の営業は国家に有益のものである』」と漸次熱してきた正造は一段と声をはげまして絶叫した。「おおきにお世話だ」それがガーンと天井に反響する下で、正造はさらにつづけた。「こっちは租税の負担をしております。古河より先に住みて租税の負担をしておる人民が、今日その土地にいることができず、祖先来の田畑を耕すことができないという事実と比較できるものでない。とにかく憲法があり法律があるのだから、それによって執行できないというはずがない。このくらいのことは誰がやってもできるのに、それができないならば、素より農商務大臣はその責任を尽さざるものである。責を尽すことのできぬものは速かにその職を辞さなければなりません。しかしながら今日は議論ではない、質問の場合でございます。いかなる答弁があるか、明答あらんことを希望するのであります」
大臣の曠職に対して手痛く釘をさして言葉を結ぶと、正造は拍手の裡に席にかえって、懐の手拭をとりだして顔の汗を拭った。
しかしそれほど熱誠をこめ条理を尽して答弁を要求したにもかかわらず、その後何日たっても政府の回答はえられなかった。この間に議会では前期以来もち越しの鉄道公債法案と買収法案に対して質問と討論三日間に亘りついで版権法案に移ろうとして場内は大混乱に陥って退場を命ぜられるもの六名。正造もまた騒擾の中にあって叱※(「口+它」、第3水準1-14-88)怒号し田中鎮台の名を轟かしたが、もとよりそれは本意ではなかった。六月七日、正造はたまりかねて答弁督促の演説をして「答弁もなさず、答弁をしないという理由も明示しなければ政府は法律の罪人である。罪人でもその行の上に於て非行不正を改めれば、徳義上まだしも恕すべきである。しかるにこれを放っておいて答弁もしないとあっては、国家の安寧を保つことができるものでない。ことさら議会に波瀾を起さしめるのは政府である」と鋭く追求した。
すると十一日になって、漸く農商務大臣河野敏鎌の名で答弁書が議長の手へ廻った。正造はそれを一読して憤懣やるかたなかった。それは曖昧模糊としているのみでなく、徒らに鉱業条例にさし障ることを避けるに勉めて故意に事実を顛倒している。国務大臣の責任を負う答弁というには、余りにも冷淡きわまるものであった。正造は早速にその夜から徹夜して反駁の質問書を書きあげると、十三日にこれを提出した。議会も会期の延長がないとすれば十四日が最終日である。またもうやむやに葬り去られるかと思うと、憤りと焦躁に胸の裡が煮えかえった。十四日の議場では正造は他の議事もほとんど耳に入らず、ひたすら議長を睨んで自分を呼ぶのを待った。
そして三十一番の席をたって登壇すると、開口まず、
「農商務大臣の答弁はまるで事実を詐欺したものである」と肉迫した。「名称を変換し、或は名称を偽り、或は位置を変換した答弁である。私はその地方のものである。土地の様子を知っているものにむかって偽をいってはいけない。第一大なるところが間違っている。それは、渡良瀬川総体について川を浚うように答弁書の文章ができておりますが、渡良瀬川総体の川筋を浚うということは実に容易ならぬことで、これは第一なしうることではない。なるほど川を浚うということもまるで無根ではない。待矢場両堰水利土功会というものであって、これに掛合って水門から入る細い堀の泥を浚うという示談がととのったのをさすのだが、しかしこの功用は単に小部分に対するもので豪も他に及ぼすものでない。まるで事実を知らぬのだろうと思います。もう一つは、地方の公共の安寧に害ありと認めぬから、まだこれを停止する程度に至らぬと文章にある。何をもってこれを謂うのか。すでに害を蒙っているものは何万をもって数うるほどで、その田畑の町歩というものは二郡二十八カ村で千七百何町歩、これは直接の被害で、その他害の及んだところは尨大なるにもかかわらず、この重大なる害を安寧を害すと認めない。あまり甚だしい事実の差でございます。農商務大臣は、竹槍蓆旗をもって官衙に訴えることでなければ、これを安寧に害ありと認めないか。土地に住むものが一人も残らず、その土地を転住するとかなんとかでなければ、これを安寧に害ありと認めないのであるか」
正造の口調はまたしても激越を帯びてきた。
「これはまるで事実を知らないからである。しからざればこの如き不都合な答弁を通すわけはない。もしこれを知っていてこの如き答弁をしたとしたら、即ち農商務省全体もこの鉱毒を受けたものといわなければならぬ。かの古河市兵衛は非常な財産家である。道途の言によるなれば、古河市兵衛に対しては各大臣といえどもお世辞を使うくらいであると、なるほど、農商務大臣も足尾銅山の毒素を受けたものと見える。斯のごとく農商務全体が腐敗して足尾銅山の鉱毒をうけた。いわゆる銅臭だ」笑声が爆ぜた。正造はなおも汚いものでも吐きだすように大口をあけて「この銅臭の毒気をうけて己がその毒中にあるからして、鉱毒は格別のことではないと思うのである。即ち雪隠にいて臭きを知らざると一般で……」
またも笑声が爆発した。ここまで痛言しなければならぬことを、正造自身がどれほど苦痛としているか。議員の多くはまるでその悲懐を解せぬもののようにげらげら笑っていた。
正造が降壇すると、二百五十八番の折田兼助がぬッと立ちあがって、緊急動議と叫んだ。なにごとかと満場のものがそそぐ視線を折田は意識しつつ、
「田中君の雪隠にいて臭きを知らないものである云々と申されたのは、かような言葉が時にとって、至尊の上覧にふるるようなことがあっては、なおさら恐縮の至りであるから削られたいと思います」
議長が目をむけるより早く、正造は四百十八番の席に立って、
「折田君は、たいそうよい思い付きでありますから、これに相当する文字をお選び下すってお直し下さい」
議場はホッとした気配でわらい声さえきこえた。
この日議会は夜遅くまで延会の詔勅が下るかもしれぬと取沙汰されつつ、結局そのこともなくて最終日となってしまった。正造の再度の質問にもかかわらず、ついにこの鉱毒問題はこの議会もかの一片の答弁書だけでうやむやの裡に葬られてしまったのである。
しかし政府当局がこのように冷淡な態度を恃んでいたのも、それには裏面のあることだった。何人の手で写されたのであろうか、答弁書が発表されると、それを掲載した官報や新聞が被害地の各村に無償で配布された。鉱毒被害の声を抑制しうるという事務当局の自信の根拠がこの辺にうかがわれる。事実被害民たちの無知は科学の何たるかを解していない。粉鉱採聚器が明治二十六年六月頃までに据付けられるときけば、ただちにそれが除害の利器でもあるかのごとく信じこむものが多かった。
猶かつ官尊民卑の風が陋乎として残っている農村のことだから、大半のものが政府の言に信頼してまずまずと愁眉をひらく有様だったのも無理からぬ次第だった。猶この官報や新聞の配布にさきだって鉱毒被害の声を闇に葬むるための周到な用意がめぐらされていた。地方官吏の策動によって示談契約のことが着々と具体化していた。即ちすでに五月中栃木県では中山丹次郎、横尾輝吉、早川忠吾等十九名の県会議員によって仲裁会なるものが成立し、これが知事折田平内の※(「臣+頁」、第4水準2-92-25)使のままに動いていた。丁度正造が鉱毒問題をひっさげて議会の壇上から叫んでいるとき、彼等はまず折衝の手はじめに、正造と因縁ふかい安蘇郡の被害地の有志四百数十名を郡役所楼上に集めたのも皮肉だった。狭い会場をうずめた人々が互に麦作の被害などを語り合う声のたかまるころ、折田知事が現れてみずから仲裁会の趣旨を説明した。つづいて横尾輝吉が仲裁会を代表して傲慢な態度で登壇した。
「――この数年来、くる年くる年も収穫の減退を蒙り疲弊困憊に陥っている農村の状態は実に見るにしのびないものがある。被害地の農民諸君に対して衷心同情を禁じえないのである。それ故にわれわれも日夜これが救済の方法について肝胆をくだいてきた。いかにしたら諸君の窮状を救うことができるだろうか。ここにこれが解決策として、われわれの考えられる方法が三つある。即ちその一は行政上の処分として鉱業を停止せしめること、その二は司法上の問題として損害賠償をさせること、その三は仲裁によって示談すること、これである。今ここでこの三個の方法についていずれがもっとも事態に適切で可能性があり、確実な効果をもたらすかを検討してみよう。第一の方法はどうか。これはすでに或人によって馬鹿の一つ覚えのように称えられているが、その実しかし簡単でない。いうはやすくして実に行うに難いのである。なんとならば、足尾銅山といえば実に東洋に厳たる大鉱山であって、その産額は年々二百万円以上にのぼっている。一朝この大事業を停止せしめたとなったらどういう結果になるか。国家は巨額の損失を蒙ることになる。いやそれのみでない、直接間接に鉱山によって生計を営んでいる多数の人民が、すべて糊口の途を失って路頭に迷わねばならない」
誰か太い野良ごえで叫んだものがいた。「人のことより、現にわしらが喰うに困っている」
「然り、このままで解決もせず放任しておいたら、或は諸君もそうした境涯に陥らんともかぎらない」横尾は悠々と話をすすめた。「しかし、自分たちが救われんがために、他人がどんな悲惨な目にあってもいいとは日本人たる諸君は考えないだろう。ここである、諸君に考えてもらいたいのは、このところである。足尾が鉱業停止になったとしたら、その例が全国各地の鉱山に続々と波及せぬともかぎらぬ。そうなれば日本の鉱業はまったく地に落ちてしまう。全国鉱山所在地の多数人民の生活がそのために剥奪されてしまう。政府としてはこんな大騒動のきっかけになるようなことを易々と断行できるものではない。また政治の当事者ともなれば、日本全体の人民のことを大所高所から考えねばならぬのであって、一方のみ助けて他方を顧みないというような偏頗なことをやれるものでない。まして況んや、渡良瀬川の川底に沈んでいる粉鉱は、たとえ鉱業停止をしたところが、すでに如何ともなしがたいのである。しからば第二の方法は如何。これまた頗る至難のことに属する。即ち数千人の所有にかかわる数万筆に及ぶ田畑山林に対して、一筆ごとに一々被害の原簿にしたがって等差をつけて賠償の額を算出しなければならぬ。またそうしなければ支払う方としても受取る方としてもなかなか納得できかねるだろうと思う。もしその間に於て、鉱業主が些細なことにも不服を申立てて裁判沙汰にでもなったとしたら、これは何年かかって判決が下されるものか殆んど見通しはつかないだろう。そこで第三の場合であるが、ぜんたい仲裁と申すものはいわば徳義上の裁判であって、すべからく社会万般の問題は双方のいい分を立て譲るところは譲り合って円満解決へと運ぶのが順序なのである。従って鉱毒問題の解決も、この仲裁によるならば最も穏当に、敏速に、かつ有利に、その結果を見出しうることと私は信じて疑わぬものである。殊に古河氏に於ても被害者諸君に対する非常な同情をもって、さきに折田知事に対して道義的調停を申しでられたのであるから、諸君もこの際われわれ仲裁会委員の意のあるところを汲んで、円満に示談契約を結ばれるように切望する。われわれはまた諸君のために決して犬馬の労を厭うものではない……」
拍手の音は寥々たるものであった。この演説をきくうちに過半のものが一種の圧迫をおぼえたが、それを反撥する気力のあるものもなかった。自分たちに格別の利益をはかってもらえる仲裁のようにも思えたが、どこか信頼しきれないという猜疑心のために多くは去就の態度に迷っていたのである。ようやく二三の質問があったが、いずれも果して示談金が確実にもらえるかというふうな愚かなものだった。すると、最前列にいた一人が立って、仲裁委員たちに対する感謝をのべ一同をふり返って、
「私がかく申すのは、はなはだ僣越のようですが、おそらく皆様もお気持は同然だろうと思います。一人々々がそれぞれ勝手なことをいい立ててはきりのないことです。このさい御親切な委員の方々のお言葉に従って仲裁をお任せすることにしてはいかがです」
二三の拍手につづいて、結局大半のものが雷同的な拍手を送った。
その翌日、足利の郡役所に於ても、足利、梁田、両郡下の被害民総代が召集された。同じく折田知事が出張って、中山丹次郎からほぼ横尾と同様の説得があった。またさらに日を替えて下都賀郡役所でも被害民総代に向って郡長の立合で仲裁会委員から示談の慫慂があった。
こうして示談の下準備は着々と進められ、やがてそれが各被害地個々に具体化した。村々の被害民総代は古河市兵衛名義の契約書に捺印した。契約書の内容は旧臘梁田郡長が郡下の各村長を集めて示した草案と大差ないもので、二十九年六月三十日までを粉鉱採聚器の実効を試験する期間とし、その間は何等の苦情をとなえることもできないし、行政や司法上の処分を乞うことも一切しないという箇条などまったく屈従的なものであった。
正造が被害地のこうした情勢を知ったのは、議会が終了して旬日後帰郷してからのことであった。正造は例によって東北線を古河駅に下車し、俥を雇って谷中村の堤防にでた。左手に渡良瀬川の曲折が葦原のあいだに梅雨にごりの水嵩をたたえているのを眺めつつ、藤岡町に来て河内屋に一泊した。翌日はまた三鴨、界、植野と被害地の村々を通って佐野へ出た。佐野ではまず村山半の邸に俥をとめた。主人が不在だというので井戸端で裸になって気持わるく汗ばんだ体を拭っていると、そこへ村山が帰ってきた。ともに座敷に通ると話はすぐ中央の政界の経緯になったが、
「議会での御奮闘の様子はおよそ新聞で拝見しました。北海道の鉄道と炭鉱の払下げ問題も今度は痛烈にやられたようですね」
といわれて、正造は苦虫をかみつぶしたような顔をしつつ、
「いったい、議会の開ける前は、収賄のことなどは誰しもみなこれを恥とした。それが今や誰も珍ともしなくなった。政府の不正も、もはや世人の耳に慣れっこになってしまったのだ」
「世のなかが文明になって、かえって堕落して来たのでしょうかね」
「例えば病気がふえたのと同じことです。医学の進歩によって病原を発見するのか、病原が増したか、どちらか知らんが、しかし病気の種類が多くなったからといって、病人を捨てておくわけにはゆかない」
村山は正造の顔を見つめつつ何度もうなずき、
「あなたの議会の演説に、北海道は盗賊の棲家だという言葉があったが、まだ病人なら医者にかければ癒しもできるが、盗賊が増えたのでは始末がわるい」
「私のしばしばの鉱毒の質問も泥田に棒を打つ如しだ。泥田にいくら棒を打っても跡かたないのと同じで、すこしも明瞭にならず判然ともしない。これこそ本当の泥棒だ。どこもかしこも泥棒の世の中だ」
言葉は冗談に類しているが、その声には慨歎の切々たる心情がひびきでていた。
「鉱毒といえば、横尾君らの仲裁会のことは御存じですか」
「こんどこちらへ帰ってはじめて知った」
正造は吐きだすようにいって憤懣にたえぬ面持だった。
「そうですか、相談も挨拶もなしですか。もっともなが年の同志を裏切るのに連中がいくら厚顔でも相談はできなかったのかもしれない」
「心の底まで鉱毒がまわって、銅臭芬々たる奴らのことはどうでもいい。だが、放っておいては被害地の人民が可哀そうだ。彼等は無知で愚昧なために、いいように籠絡されてしまいそうだ。いや、もうだいぶ瞞されてしまった様子だ。その証拠に、村々の知り合いの家を訪ねても私に対する態度がすっかり変ってしまった。隠しだてしている様子がありあり顔色に見える。私の顔をまともに見られない。突込んで聞こうとすると用事にかこつけて逃げ隠れてしまう。ろこつに私を邪魔もの扱いにするのもいる」
「まことに、あてにならぬのは人間の心です」
「銅山党の奴らの陰謀はたくみにたくらんだものだ。然し今度は図にあたるかも知れない。まず被害民たちに鉱毒を云々しないように目くされ金で猿ぐつわをはめ、やがて彼等の口から私の誹謗を放たせ、私にも猿ぐつわをはめようとかかるにちがいない」
正造は腕ぐみして黙然と眼をとじていたが、ふと礫をうつような音をききつけて庭の面に眼を放った。
青梅が自ら落ちて庭石をたたいたのだろう、小笹の根もとへころげ寄るのが見えた。
「ニュートンは林檎の落ちるのを見て引力を発見したということだ。下情に注意すれば、およそ天下の人情を察することができる」
正造は卒然とつぶやいたが、自らこころにいいきかせる言葉だった。
翌日の午後、正造は俥の幌もかけず小糠雨の中を渡瀬村の下早田へ来た。俥を下りて渡良瀬川の舟橋をわたり、しばらく岸辺にたたずんで小川渦紋のながれやまぬ川面をながめ、それから何か独りごとをいいつつ雲龍寺の苔生した山門を入った。水溜りに踏みこみつつ庫裡へこえをかけると、住職の黒崎禅翁が手紙でも書いていたらしく筆を手にしたまま出てきた。禅翁というと老師のようだが、まだ三十前の青年らしい情熱をひそめた眉宇がむしろ白衣に似つかわしくない感じである。旧知の間柄ではあり、正造は無遠慮に、じとじとする畳をふんで奥座敷の東側の障子をあけ放った。来るたびにいつも遠望をたのしむ筑波山は見えず、ただそこには鴨居と敷居に区切られて漠々たる雲の動きがあるばかりだった。
やがて予め正造と打合せがしてあったらしい村内の小林善吉と対岸吾妻村の庭田恒吉が数名の青年とつれだって訪ねてきた。座敷にまるく座をしめると、早速仲裁会の動静が話題になった。さきに足利郡役所に被害民総代が召集されて仲裁を慫憊されたとき、田中派と木村派との政党的対立がはしなくも物議をかもす種となり、木村派の早川、広瀬、影山の三委員が仲裁会から分裂して別に鉱毒査定会なるものを作った。庭田たちの報告によると、吾妻村附近はこの派の走狗が出没して村長の亀田佐平以下がすでに示談説に傾いているという。早川といい亀田といい、卒先して鉱毒の被害に蹶起した人々で嘗ては正造もその先唱を称揚したことがあった。それだけにその後の変心と裏切りの行動が彼等のためにも惜しまれてならなかった。群馬県下もまた同様に仲裁会と鉱毒査定会を面々が被害民をたぶらかすことに鎬を削って、憂うべき情勢にあることが小林の言葉で明白になった。
正造には役人の策謀も、地方議員の策謀も、すべてのからくりの醜悪な裏側が見透しだった。――被害民たちはおそらく宣伝にのって粉鉱採聚器を鉱毒を防止する器械と信じさせられているのだろう。その据付の期限は来年の六月末の予定というにすぎない。しかし被害は日に日に拡がる一方である。またたとえ据付けたところで多年にわたって河底に沈澱した鉱毒は容易に消滅しないばかりか、年々歳々洪水のあるたびに害毒を加えるだろう。この際いくらでも示談金の取り得だというような軽薄さで眼前の小利に惑わされたら百年の悔いをのこす。示談とは、この渡良瀬川沿岸から鉱毒被害の声を抑えるための陰謀的手段である。老若男女だれにもよくわかるようにいい聞かせて、自分たち祖先伝来の土地を護らせねばならぬ。――正造は胸の裡の憤懣をおさえつつ諄々と説き聴かせて対策をあたえ、奮起を促した。さらにまた青年たちの方へむき直って言葉を改め、「無知な人たちはなにかというとすぐ天災々々といって、なんでも天災のせいにする。噴火とか暴風雨とか氷雪とかは、なるほど植物や生物を害す。しかし人間の心から見て、ただ害するように見えるだけのことで、例えば人間が麦の穂を採って喰うのは、これを麦を害すといえないことはないが、しかも害するように見えるだけで天地の公道を害するのではない。植物でも動物でもみな天命の下にあるのです。だから天災などというものはないわけのものだ。この理がわからずに被害民諸君は鉱毒も洪水もみな天災としてあきらめている。鉱毒は決して天災でない、古河市兵衛の我慾、即ち人為の害だ。水害もまた十八九年頃からの山林濫伐の結果だ。これはたとえ話だが、ここに心のごく弱い人があって寝小便たれの妻をもったとする。妻の方は少しばかり学問があるので、自分の寝小便を生れつきとし天災として夫に説く。夫は馬鹿野郎で、そうか天災ならば仕方ないと合点する。そのうちにこの妻に子供ができた。妻は自分の罪を幼い子に嫁して曰く、私は不思議と天災をまぬがれましたが、どうしたことか子供がまた私そっくりの天災で……と、夫はまたその言葉に欺かれて、とうとう寝小便が天災になってしまった」
奇抜な比喩に一座のものがクスクスと笑いだした。正造も自ら大口をあけて笑いかけたが、
「いや笑いごとでない。洪水も鉱毒もこの寝小便の天災のたぐいだ。役人や議員連中をこの才婦とすれば、沿岸の被害民はこの愚夫だ。天災だなどといって泣寝入りしていてはまさしくこの愚夫にも劣る。この愚夫の迷いからめざめさせ卑劣卑屈の人心を救うのは諸君たちの役目だ。新しい頭と純朴な心を持っている青年諸君の役目だ。もともとこの関東地方の人間は徳川の温和的な圧制に慣らされて堕落し、それが二百余年の遺伝の結果は謙遜や忍耐をとおりこして畏怖となり卑屈となって封建性が依然たる有様だ。それのみでない。かつて徳川が威勢をふるって国家を操縦した当時は薩長土肥などの有力な諸藩もみな涙をのんで服従していたが、今や薩長が[#「薩長が」は底本では「藩長が」]国家の大勢を握って二十余年、過去積年の圧迫に対する仇討というわけで、わが関東や東北を辱めるに努めてきた。特に徳川に近いものを憎み、関東を賤しんで、わが関東をみること恰も庭園の家畜のごとくである。ために二百余年の封建的な余弊がますます甚だしくなって、悲しいかなわが関東人はまったく自主自由を失い、無気力無精神になってしまった。権門にへつらい奴隷となって自ら恥じない習慣までできてしまった。関東をこの堕落から救いだし、関東の気力を取りもどすのは、やはりわれわれ関東人の力以外にはない……」
座敷のうちにも夕靄がしのびこんで、人々の顔も見わけがたくなり、ただ眼の光だけが点々と宙にすわっていた。外面の雨はやんだらしく、裏の杉林で三四羽の鴉が暮色をせきたてるように啼くのがきこえた。
しかし正造のこうした努力も、隻手をもって奔流を押えようとするにも等しかった。示談契約の趨勢はつぎつぎに渡良瀬川沿岸の村々を侵して拡った。仲裁会の委員たち自身も被害地の村々と古河とのあいだを幾回となく奔走して、夏から秋にかけて逐次契約書の取り交しまでに事を運んだ。
安蘇郡では植野、界の両村及犬伏町、下都賀郡では藤岡町、及び生竹、部屋、野水、三鴨、谷中の諸村。契約の結ばれた被害総町歩は二、九五六町五反七畝二八歩、関係人数四、九七八名で、これに手交された示談金総額は四八、九八七円三二銭九厘、この数字だけを見れば相当の金額とも思われるが、一反当りの平均をとれば僅かに一円六六銭にすぎなかった。一方査定会一派の動きも翌年三月までに足利町及び吾妻、毛野、富田、小俣、坂西、梁田、筑波、山辺の村々を徐々に蝕んで、それぞれ総代と称する者たちが契約書に捺印した。示談の条件もほぼ同工異曲であった。さらに群馬県下では邑楽郡の西谷田、大島、渡瀬、多々良の四カ村が契約を結んだが、示談金は同様に一反当り二円という少額、山田、新田の両郡に到っては一反当りの平均八厘という信じ難いほどの金額だった。
さきに内務大臣副島種臣は志を閣内の暗流にはばまれて憤然と致仕したが、松方は自らこれを兼務して議会を乗り切り、七月十四日河野敏鎌を移して内務にすえた。即ち河野は着々と選挙干渉の善後処置をとり知事数名の更迭を断行した。すると、これが因をなして閣僚間の軋轢が表面化し、同月二十八日、松方内閣はみずから瓦解の運命を招いた。
八月八日第二次の伊藤内閣が成ったが、その顔ぶれは藩閥政治家の交替にすぎず、独り大蔵の渡辺国武が信州人であるのを世人は異数とし、もって世変を見るに足るものとした。
十一月二十五日、第四議会は召集された。顧るに議会が開けてわが国はいよいよ憲政によって国歩を進める時代に入ったのだが、なおその方途たる憲政を求める過渡時代の継続たるにすぎなかった。従って過渡時代に免れえない混乱がつづき、二十五年も暮れようとして政界は依然として陰雲におおわれていた。しかし波瀾のよってきたるところは、遠く征韓論の決裂によって多くの失意者を野に放ったことに帰さねばならない。彼等はそれぞれ郷党に根を張って民間の不平分子に反政府の気※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)を養わしめ、ついで民権運動が燎原の火のごとく拡がっていよいよその気勢を激越ならしめた。かかる気運の裡に議会は開かれたが、政府は依然として政治運動によって人心を収攬しようとせず、ひたすら維新以来経営の事功がなかばにして空に帰することをおそれ、汲々として藩閥の維持に努めた。ここに於て衝突は避けんとしても避けがたい。党人の目標はいうまでもなく政党内閣のはずであるが、そこに到る勢力獲得の手段として民間に於ける反政府の気運を利用し、苟も政府攻撃の材料があれば採ってもって政策の如何を問わなかった。ために攻撃のための攻撃、衝突のための衝突といった観さえ呈した。しかもこの権力と事功に対する慾望の衝突の裏面には、憲政の解釈に於て輸入思想と日本的思想との錯綜があったから、紛争の相貌はいよいよもって奇怪を呈した。第四議会に入って自由、改進等いわゆる民党の間に不調和を生じ、ためにやや波瀾を改めたかと思われたが、予算査定案をめぐって果然政府と議院と牆壁をもって相対するに到った。二十六年一月十六日、議会みずから五日間の休会を可決して政府の反省を求め、さらに上奏案を上程すれば、政府はまた十五日間の停会を奏請してこれに応酬し、正面衝突の殺気はそのまま停会明けまで持ち越された。即ち二月七日議会は依然上奏案の議事を続行してこれを可決した。
二月十日「在廷ノ臣僚ニ告ケ給ヘル勅」との勅語が下った。「顧ルニ宇内列国ノ進勢ハ日一日ヨリ急ナリ今ノ時ニ当リ紛争日ヲ曠クシ遂ニ大計ヲ遺レ以テ国運進張ノ機ヲ誤ルカ如キコトアラハ朕カ祖宗ノ威霊ニ奉対スルノ志ニ非ス又立憲ノ美果ヲ収ムルノ道ニ非サルナリ」との御諭であった。また内廷の費を省いて六年の間毎年三十万円を、製艦費の補足として下附すると仰せ出されたのもこのときである。民党が民力休養と政費節減に仮託して政府の予算案に大斧鉞を加え、ここに紛争の端を発したからであった。ここに於て衆議院は十三日より開会して奉答文を議決し、政府また譲歩を公約して、月余にわたる紛争もようやく納り、爾後の諸法案も平穏裡に通過を見た。
この間にあって正造は、しばしば発言を求めて席を起ったが、ついに鉱毒問題にふれる機会がなかった。
四囲の政情がその余裕を与えなかったのである。
被害地の事情はどうかといえば、さきの示談契約の策謀は着々とその範囲をひろめて、被害民に於てもまた唯々諾々とこれにつく者が多く、もってその堵に安んずることを得るものとした。即ち仲裁会委員たちの言動は感謝され、前途を憂える正造の警告と奔走は次第に疎んぜられ嫌悪されるに到った。嘗て正造が自ら予言したごとく、その地方から鉱毒被害のこえを葬ることによって彼もまた緘口令を敷かれた感があった。
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第六章
朝鮮の東学党が官兵を破って全州の首府を占領した。明治二十七年五月三十一日のことである。支那公使の袁世凱はひそかに時到れりと閔詠駿をそそのかして、隣邦の兵を借りて賊を討つことを申言せしめた。天津条約は日清両国のいずれが朝鮮に兵を動かす場合にも、予め互に知照すべきことを約定していた。しかし袁世凱がこれを無視したのは、日本の国内情勢を観望して、今にわかに他国へ出兵する余裕はあるまいと計算したからである。清兵をもって乱を平げ、朝鮮を属領とするはこの好機を於てないとしたのである。
事実わが国情をかえりみれば、政府と民党との軋轢はすでに年久しく、海外よりみれば日本は政争に寧日なく混乱を極めているごとく印象されたにちがいない。ことに第四議会に於て詔勅によって紛争を改めたかにみえたが、外務大臣陸奥宗光が条約改正の難事業に着手しようとして、又しても政府攻撃の声が沸騰した。もともとこの条約改正のことは従来の政府がいく度か企てて挫折したところで、今回は外人に内地雑居を許しこれによって速かなる実現を期したのであった。然したまたま大石正巳が弁理公使として韓国に赴任し、多年懸案の防穀令事件を強硬な折衝によって解決したことが、外交はよろしく斯の如く強硬なるべしと対外硬の一派を刺戟して、翕然として内地雑居反対に赴かしめた。さらにまた二十六年十一月十五日千島艦事件が横浜英国領事裁判所で日本の敗訴となった。事の発端は政府が仏国に託して製造させた艦が廻送されて瀬戸内海に入りながら、英国の飛脚船ラベント号と衝突し海底の藻屑となった。二十五年十月三十日の夜半の出来事である。そこで政府はこれが損害賠償を出訴したのだが、在野の主張はみだりに天皇の御名をもってしたことを僣上とし、外国の法廷に出訴した手続きを国辱的であるとして、非内地雑居論より一転して条約励行論となった反政府の旗幟となり、この現行条約励行の建議案をめぐる紛争により議会は停会中の十二月三十日に解散された。
ついで翌二十七年三月一日に総選挙が行われた。正造は栃木県第三区より木村半兵衛を退けて三度当選した。この総選挙を通じて前議会の解散を不法とし対外硬の論議の口を緘するものだとする非難と慷慨が輿論を率いる結果となり、来るべき議会を前にして野党は轡をならべて政府攻撃に突進せんとする形勢だった。
この間にまた対外硬の論者を衝撃する事件が突発した。即ち三月三十日の東都の各紙が韓国の志士金玉均が上海の旅舎で暗殺されたという通信がいっせいに掲げられた。玉均は十七年の甲申の変によって朴泳考とともにわが国に亡命し、爾来十星霜落※[#「口+倉」、U+55C6、63-上-14]流離の身を岩田周作という仮名にかくれてわが有志の保護のもとにあった。李鴻章の息である李経芳の招きに応じて清人呉静軒、韓人洪鐘宇、邦人和田延太郎とともに上海へむけて出発したのが二十三日で、二十七日上海の旅舎に着くとその夜、鐘宇のために短銃で倒されたのである。なお後報によると、和田がその死骸を修めて日本へ帰ろうとしたが清国の官憲に拒まれて果さず、のみならず清の軍艦威遠がその死骸と鐘宇とを乗せて仁川へ護送したという事実まで判明した。また暗殺は韓廷の密旨をうけたもので、死骸は楊華津頭に頭首と四肢とべつべつに梟せられた。これらの処置すべて清国側の使嗾によるものだとの風説が専らだった。世人の清国に対する感情がますます険悪になった。
五月十五日第六議会は開会された。劈頭まず改進党をはじめとする対外硬六派連合の弾劾上奏案が上程され、自由党もまた別箇に弾劾上奏案を提出した。議論沸騰して議場はしばしば混乱に陥ったが、結局自由党案を修正して可決された。議長楠本正隆が六月二日に召されて参内し、やがて帰院して上奏を御採用あらせられずとことの次第を報告していると、その卓上に解散の詔勅が伝達された。
清国政府が葉志超を総指揮として兵約千六百を朝鮮へむけて移動せしめたのは、それから数日後、すなわち六月七日である。つづいて提督丁汝昌の率いる軍艦二隻もまた仁川に向った。ここにおいてわが国は帰朝中だった公使大島圭介を急遽韓国に帰任せしめた。大島は清兵の先発が牙山に上陸した九日に、海軍陸戦隊をしたがえて仁川に上陸した。同時に在留邦人保護の目的であることを公表した。ついで陸軍少将大島義昌の混成旅団が仁川に到着して、十三日に京城に入った。東学党は風声をのぞんでおのずから鎮定した。だが、その撤兵問題について日清両国間にあらたな紛議がかもされ、風雲いよいよ急を告げつつ七月も末になり、二十五日の早朝のことである。海軍少将坪井航三の率いる第一遊撃隊が豊島沖で清国の済遠、広乙と遭遇し、まず済遠の発砲によってはじめて戦火を交えた。いよいよ両国の戦端がひらかれるに至ったのである。
八月一日に宣戦布告の詔勅が下った。九月十五日には大本営が広島に移された。あたかも十六日に陸においては平壌を陥れ、十七日に海において黄海の大勝となった。十月十五日をもって第七臨時議会が広島に召集され、十八日貴衆両院の議員ことごとくが広島に集って開院式が行われた。
これよりさき九月一日に総選挙が行われて、田中正造は四たび当選した。すなわち正造もまた広島の議会へ赴いて、十月二十二日の開院式を終えるとただちに帰京した。
帰京して間もない或日の夕方、正造は相もかわらぬ黒紋付の羽織の袂をふりつつ、飄然と早稲田鶴巻町の戸泉という郷党の書生たちの下宿へ現れた。今しも号外を前にしてしきりに戦況を語り合っていた三人の若い書生たちは、縁側に立った正造の姿に驚いていっしょに声をあげた。
「おや、もう帰京されたのですか、飛脚ですね」
「まったく、その飛脚の旅だった。なにしろ今日は尋常一様の場合でないから、われわれはわれわれなりに尽すことを尽さなければならない」
そういえば新聞にも書いてありました。こんどの議会はたった二日間で一瀉千里の勢で全部の議事を終えたとか、山田友次郎がうすい座敷布団を自分の膝の下からとってすすめ、土産話をうながした。
「和衷協同、さすがに厳粛な議会だった。開会の前後こそ議員のあいだに党派的な感情がもやもやしていたようだが。……なにしろ国内の戦争とはちがう、実に容易ならぬ戦争だ。国民が一致してあたるということでなければ、この戦争の目的を美しく達することはできないにきまっている。宣戦の御詔勅にも速かに平和を永遠に克復とある。今度の戦争は東洋の平和を計るためのものだ。東洋の気候が狂ったからして、わが軍隊が敵地に赴いて電となり雷となって気候を回復するのである。銃後の行政官もわれわれもこの電となり雷となる者を援助すべき風雨だ。風雨となってこの雷電のごとき勢を助けなければならない責任がある。だから、わしも質問すべきことは数々あったが、今日の場合だから遠慮してその意味で政府を激励してきた。だが、なんでもかんでも従順にさえしてゆけばいいというものでもない。政府の役人にも万端にはものがゆき届かないこともあろうから、われわれはよく目を開いていて為にならぬことは訴えたり忠告したりしてやらねばならぬ。政府も虚心に有難くそれを聴くべきで、ただ自分たちに都合のよいように従順にさえしてゆけば、それが和衷協同というような考えを持つようだったら大変だ。そんなべらぼうな和衷協同は天地の間にあるものでない。それは権勢に対する阿諛を強いることだ」
言葉を切った正造の額には繩のような太皺がより、目差しが異様なひかりを帯びていた。広島で見聞した忌しい印象がさまざまと蘇ったのである。大本営の下、陛下が宸襟をなやましたもう国家存亡の場合を弁えず、某大臣が折花攀柳の醜聞を流したことである。しかし正造はそのことは胸底に沈めたまま語気をかえて、
「わしは今度広島でまことに胸のすく有難い話をきいてきた。宗方小太郎という人が草奔一介の身で大本営御在所の前庭に伺候してじきじきに拝謁を賜り、そのあとで側近の人々を通じ縷々二時間にわたって支那の形勢について御下問があったということだ」
「この間の新聞にも出ていました。芝罘で密偵をやっていて万死に一生を得て帰ったという……」江森泰吉が言葉をはさんだ。
「それが拝謁の時はとくに滞支中の支那服を着用せよという御内命だったので、宗方は感激して辛酸のいろに染った支那人の姿でまかり出た。畏多いことだ」
正造は語尾をふるわせて簷先へ眼を放った。夕闇の中に桐の黄葉がカサカサと鳴っていた。しばらくこの沈黙ののち、きちんと膝を折ってかしこまっている三人をふりかえって、
「諸君はこれから飯を炊くのだろう、すまんがわしも馳走になる。例によっていつもの貧乏だが酒代ぐらいは持っている。誰か徳利をさげてひと走りしてもらいたい」
田村義重郎が起って「例によって柳川鍋も註文してきますか」
山田が庭石の上にもち出した七輪に枯枝をくべて破れ団扇でバタバタとあおり、江森はランプのほやを掃除して点燈する。そのうちに田村が貧乏徳利をさげてかえって来た。追いかけて註文の柳川鍋がとどく。机をランプの下にすえてたちまちささやかな酒宴がはじまった。正造は三人の盃に交互に酌をしてやりつつその顔をまじまじ眺め、若いものたちとこうして飲むのがいかにも楽しいという様子だった。
「先生、どうしたんです。梟が驚いたような目をして」山田が無遠慮に諧謔を期待する顔付でたずねた。
「いや、わしは諸君たちのような若い人たちがしっかりやって、これからの日本を改良し進歩させてくれるかと思うて頼母しくて仕方なく、失礼だが諸君の顔を眺めていたところだ」
「先生、そう僕らをおだてても今夜の御馳走はもうこれっきりです」
「いや冗談ではない。今後の日本は五六年前のように偽英雄とか小才子とかが世の中を掻廻した時代とはちがう。だいたい今の歳とった人たちは、なるほど経験はあるけれど、たとえば政治の方面にしても明治政府以来の新規にこしらえた政体というものの運営については、ごくいけない古臭い影ばかり残っている。政府のものにもこの弊が沢山あるし、在野のわれわれの頭もそれである」
「だが、僕たちはこれから勉強して世の中に立とうという書生ッポです」
「だからその勉強についても、ただ知識を取り入れるというだけでなく、しっかりした志をたててもらいたい。この志さえしっかり立ててかかれば、その専門とする学問はなに学でもよい。人間わずかな寿命のうちに専門学がいくらも修るものでない。今の学者といわれる連中だって、なにもそんなに沢山いろいろの学問を修得しているわけでない。一つでも一生懸命に修めてこれを仕上げさえすれば、社会改良の、また公徳の基礎となる。ところが日本の従来の風はなんでも十能六芸そろわなければ人間らしくないように思う。まず衆議院議員を見なさい。なんの種目にも口を出す。だから無責任になる。公徳をおおいに欠いている。世の中のことはテーブル論だけではいけない。よろしく実についてどこまでも格物致知の法をもって研究に研究して仕上げなければならぬ」
正造は徳利の口をもって三人の茶碗についでやり、自分もすするようにして掌で口を拭い、
「明治二十年の頃だったと思うが、尾崎行雄君が大同同団の幹事をやって、在京の政治家連中を芝の三縁亭に招んだことがあった。この正造も招かれていったが、西洋料理の喰いようをしらぬから非常に困った。丁度高田早苗君がいっしょだったから、高田君の次の椅子へいって腰をかけた。ところが今日でこそこうしてなかなかの美服を着ているけれど」三人がクスクス笑いだそうとするのを正造は手でおさえて、
「その時分はながく洗濯しないのを着ていたから、もう臭気はするし、それに高田君はわしに虱が群っていることをよく知っていたから、こう向いている」
正造が顔をしかめて肩をひねって見せたので、三人がドッと笑い声をたてた。
「しかし高田君のやるとおりに真似をしてどうにか喰べ終ったが、この肩のところからぬッと壜を突き出して酒をつがれたのにはびッくりした。喫驚したがまずどうにかボロも出さなかったところ、帰り際になって、この胸にかける白い物、その胸掛をハンケチによかろうと思って腰に挟んで帰ろうとしたとたんに、どっこいボーイにふんづかまった。アッハッハッ」
三人は思わず手をたたいて笑った。
「そんな風で、わしはまずテーブル上のこと、料理の喰いかたなどなにも知らぬが、料理の真味を知っている。料理の味というものは、ただ配膳にむかって喰っただけでわかるものでない。一度は自ら厨へ下りて自分で骨をたたく、米も洗う、味噌もする、薪も割れば水もくむ、いろいろの塩梅を自分でやってみてはじめて味がわかる。一歩すすめば山へ入って薪を伐る、田へ出て米を作る、粒々辛苦してはじめて真味がわかるくらいなものだ。社会改良のこともそのとおりで、今日の学者などというのは、あたかもただの料理番のようなもので、われわれの仕事は一度米を作る仕事をやろうというのです。今の学者輩は料理の本体を誤っている。政治家もまた同断だ。今日の政治家で二人の豪傑といえば、すなわち伊藤公と大隈伯を指す。この二人はどちらもなるほど腕前はある。しかしどちらかといえばテーブル上で甘い物を喰うことの方が上手である。いかさまそれだけでもない。ずいぶん台所にでて自らも米も濯ぎまた味噌もすってみ、薪も折ってみたくらいの艱難辛苦は二人とも経験があるからして、普通のペコペコ役人とはちがう。まったくちがうには違いないが、二人とも山へ入って自ら薪は採って来ておらぬ、米は作っておらぬ。そこへゆくと彼の木戸や西郷になると自ら山へ入り田へも出ている。ところが今日の政治家も学者もそこまでの真味を知らぬから、なんでもむやみと砂糖をぶちこんで人の口を甘やかし、人が喜びさえすればそれでよいという主義を採ってきた。お蔭で日本はめちゃくちゃ主義になっている。支離滅裂、暗黒社会になりかかっている」
「しかし先生」感服して聴いていた山田が言葉を挟んだ。
「日本はいま連戦連勝、この勢で押しすすめば、敵に城下のちかいを立てさせることもできます。日本の前途は洋々たるものだと思いますが……」
「君のいう通りで戦場からの快報で国民は有頂天だ。しかし、だからこそわしは戦勝って凱歌を奏すあかつきのことを心配するのだ。現在こそ国民の心が外敵にむいて一致しているが、また形の上では国に力がついて来ているが、精神の上立憲では昨日までのめちゃくちゃ主義のために蠱まれているから、これを反省せずに凱歌をあげた結果は上も下も高慢になり不遜になって、かえって国の維持が覚束ないことになると憂えるのだ。公徳欠乏の悪い結果はこの戦争の最中にも現れてくる。満州のような寒い所で、これからいよいよ寒気が厳しくなり兵隊が凍え死ぬばかりになって辛苦するという場合なのに、内地の将校のなかには腐った奴もいる、御用商人も腐っている、奴等が臭い、蔭でどんな悪事がたくまれているか、悪い予言はしたくないが、わしには目に見える気がする」
正造はしみのある壁の方に目をすえてしばし黙然としていたがまた続けた。「だから、諸君のような新しい頭の若い人たちにしっかりやって貰わねばならぬ。諸君に願うことはこの世の中に、きれいな旗、正しい旗を立ててもらうことだ。その旗印のもとに集って若い人たちが互に精神の改良に骨を折ってもらわねばならぬ。それでないと戦に勝っても日本は国の維持がおぼつかない」
そこまでいうと正造は、これで安堵したという顔付になって、
「やア、今夜は実に愉快だ。ひとつまた詩を吟じよう」という言葉の下からさびのあるこえで――手を翻せば雲と作り手を覆せば雨、紛々たる軽薄何ぞ数うるを須いん――と杜甫の貧交行をうなりだした。
終って「さて、飯にしようか」と正造は自分でたって縁側から土鍋を運んできた。三人もそれぞれ温い飯を盛り沢庵をかじりだした。
正造はまた三人の顔を見くらべつつ「どうだろう、これは相談だが、わしもひとつ諸君の仲間にしてくれぬか。いっしょに自炊生活をやろう。わしはさっきもいったように米のとぎ方、飯の炊き方はちゃんと心得とるよ。ハハハ」
「でも、ここは書生の下宿で、先生のような政治家にはあまりお粗末です」山田は正造がどこまで本気なのかと半信半疑の顔付だった。
しかし正造は肩をゆすりゆすりむきになって抗弁した。
「馬鹿なことを。政治家が粗末な下宿にいて悪いという法があるか。政治家が立派な邸にいて、暖衣飽食をこととしているから世の中が暗闇になる」
「それや、先生はいいとしても、僕たちが困ります」田村が代って反対した。「政治家と一緒にいたんでは僕たちは勉強ができない。ことに先生のように時々ほろ酔きげんで唐詩選をやられてはやかましくて仕方ない」
「やア、これはなかなか手痛い」と笑って「詩吟が悪ければそれはつつしむ。君たちの邪魔にはならんようにするし、決して迷惑もかけない。折り入って頼むことだから、そうすげないことをいわずに、一つ本気に考えてくれたまえ」
正造はもうまるで嘆願する態度だった。これは後に実現した。更に翌年の秋には早稲田三六番地に四人で一戸を構えて、平民倶楽部と称した。だが、正造自身は常に身辺多事のために、書生たちと長く起居を共にすることはなく、時々飄然とあらわれて飄然と立ち去るという風であった。その目的は青年たちの清新な空気にふれるためでもあったが、また一つには郷党の青年の勉学の足がかりを造っておきたかったのである。
その夜は書生たちの蒲団に割りこんでごろ寝すると、翌朝正造はぶらりと外出した。そのまま上野駅へ馳せつけて汽車に乗り、やがて正造のゆき着いたのは足利町の原田の家だった。折よく定助も他出からもどって風呂に入ったところで、正造の顔をみるとまず長途の旅を労うのだった。だが正造は坐るといきなり、
「いつものことで気の毒だが、また少々金を拝借したい。わしは今すかんぴんだ」
「長い旅ですものそれはそうでしょう。だが御用立はしますから、その話は後にしてまず一風呂あびていらっしゃい」
「そうか」と正造は穏しくたって縁側で袴をぬぎながら
「わしはよほど風呂がすきだと思われているらしい。どこへ行ってもすぐ風呂をすすめられる」
定助は噴きだしながら「それは伯父さんが諸所に例のお土産をおいて歩かれるからですよ」
「馬鹿な、わしだってそういつも虱を養っているわけじゃない。それに、虱は志士の勲章だ、虱を軽蔑するような奴等はとても語るにたらん」
といいすてて正造はもう素裸に下駄をはき、折から降りだした雨のなかをホイホイと掛声しつつ敷石を飛んで、風呂場の方へ姿を消した。
それから十分もたたぬ後、正造は二階へあがって障子をあけ放ち、雨と夕靄のなかに紅葉のいろを流している裏山を眺めていたが、定助があがってくると唐突に、
「わしは今度の旅行中も日本の兵がなぜ強いかということを考えてみたが、決して偶然でないことがわかった。それは新教育、小学校教育の力だという点だ。明治七年に教育令が敷かれて以来、だから、この新規の教育が成立ってまだ日が浅い。しかし今の兵隊の年齢は丁度、この小学課程を履んだ年齢である。即ち日本は丁年以上のものと丁年未満のものでは、ほとんど人種を異にし、国を異にするごとき有様で、しきりに新陳代謝がつづいているところである。もちろんこればかりでない、ほかにも重大な原因がある。古来から伝わる日本魂、すなわち国家思想、鎖国思想と勤皇と、これが深く志気を鼓舞している。また小が大に当るのであるから決するところがある、真剣である。これに反し敵は大をもって小に当るので心に侮がある。そのうえ彼の国を見ると国家思想に乏しくてただ封建的に君主を尊重するにすぎないから、君主その人が賢であるときは国が強いが、一旦君主が凡傭だとなれば士気はふるわない。日本のように上御一人に対して善悪みなこれを敬愛するのとは天壌の差だ。まして今日の支那は人心腐敗して大堕落のときに当り、従って兵式も不備だ。丁度こういうときに、わが長をもって彼の短を討つのだから、その結果は明らかだ」
「まったくそうです。今日ほど一人々々が国家の存亡を考えたことはなかったでしょう。みんな真剣です。それだけに敵愾心もたいへんなものです。この足利などでも無学な連中は実も蓋もなく支那が憎いので、孔子の廟まで祭らぬと騒いでいます」
「戦争の影響は実に思わぬところへ現れてくる。政治家というものは、この下情に注意しなければならぬのだが……支那は大堕落している、結果として敗けるだろう。だが、日本が凱歌を奏したあかつき支離滅裂になったらどういうことになる。しかもその杞憂は十分にある」
正造はまたそういって胸底の憂を語らずにはいられなかった。大きなくさめをして障子をしめると、呟く調子で、
「今でさえ世人は上も下も驕慢になっている。人を見ることあたかも屋上に登って庭の犬か馬を見おろすような感がある。かの乞食が橋の下に草枕して明月を見るような心で国家を見るものは、ますます稀だ」
定助は薄暗い光りに正造の様子をまじまじと見つめつつ、
「この頃は御病気の方はどうですか、例のリウマチス、旅行中に起きませんでしたか」
「なに格別のことはなかった。この五月の議会の頃は、順天堂に入院していて議会に通ったが、やっと一二時間椅子にもたれているのがやっとだった。あそこは小中の篠崎医師がもと勤めていたところで、そんな関係で院長はじめ皆がよくしてくれる。病というやつは損は損だが、わしはかえって病を楽しみとする点がある。一年三百六十五日無病ですごすのも結構は結構だが、こころが外にのみ走って自ら顧る心がうすくなる。わしのような無学者は殊にその弊が多い。たまたま病があって床に就くと、閑日明月を得てこころが大いに広くなる。だからわしは体の病はそれほどでなくても、心の病を癒すために入院することもある。それに病院は都合のよい場合がある。入院しておれば会いたくない人間には会わずにすむ。この五月のときは、小金ヶ原開墾地の紛擾事件で農民諸君がボロをまとい蒼い顔して病院へ訴えに来た。こういう人たちにはよろこんで会う。開墾すれば土地はお前らにやるからといって、明治初年から開墾させたものを、全部とりあげてある会社へくれてしまった。話を聞くと実に気の毒で黙ってはおれないから、議会にでて例の北海道炭鉱鉄道の件とともにこれを質問した」
「こんどの広島の議会ではなにか……」
「いやいや」と頭をふって、正造は一通り広島の模様を語りきかせ「そんな工合で、国力を養う点からいっても、一日もすておけぬ問題だが、鉱毒事件すら触れる余裕がなかった。解散につぐ解散、そうしてこの戦争だ。鉱毒被害地の人々にとって実は大不幸だが、やむをえない」
正造が沈痛に言葉をきると、定助はこころを探るような眼付で、
「伯父さんも、しばらく鉱毒事件からは手を引かれた方がいいと思いますが」
「馬鹿野郎、誰が手を引くものか」正造は怒気を帯びて大声でどなったが、「今は銅山党の術中に陥って示談契約しているために声を出し得ないでいるのだ」
「示談の成った地方じゃ、村長だとか総代だとかが、仲裁会の委員に感謝まで送ったというじゃありませんか。昨年の夏も秋も、伯父さんは被害地の村々を廻って警告して歩いても、自分の苦言に耳を傾けるものがないといってみえたでしょう」
「そうだ、姑息な示談などで泣寝入りしては破滅だと、わしが熱心に説けば説くほど疎ぜられたり嫌われたりした」
定助は下から少女の持って来たランプを釣るして、その火影に一層陰影深く見える正造を同情の眼差しで見やりつつ、
「それもそのはずです。実はいうに堪えぬような中傷がいいふらされていますよ。わざわざ私に教えに来てくれた人があります。田中はなかなかの狸だ。陽に陸奥や古河を攻撃しつつ、蔭に廻って党員の地方有力者に市兵衛から十万円の金をひきださせ、被害民にも与えたが、自分もまたあたたまった。それで地方政党の拡張を助け、それで選挙民の歓心を買った。田中は実に狸だ……」
「そのことならわしも聞いた。そういう風聞の立つのもわしの不徳で、田中はそれだけの男だから仕方がないが、被害民に対する攻撃はもっとひどい。鉱毒の被害などといって騒ぐが実は大したことではない。仰々しくいうのは要するに農民自身が金をせしめんためだ。農民は正直だというが、農民ほどこすっからいものはない。――こうだ。愚直な彼等が欺かれて金をとって、祖先伝来の田畑を荒亡されて、この汚名だ」
正造は沈痛な表情になり、袴のひだの上で木の瘤のような手をうごかしていたが、
「今年の正月のいく日だったか、なんでも暮の三十日に解散があって間もなくのことだ。選挙の準備といってもまるきり運動費のあてがない、ひどい貧窮で帰郷しようにもうごくことができない。川上保太郎と膝をつき合せてどうしたものだろうと思案なげ首でいると、そこへわしにといって一対の金包を届けた奴がある。川上が玄関からそれを持って来てどうしましょうというから、わしは断然突ッ返させた。あとで川上が残念そうに、なぜ受取らなかったかと追求するから、不潔な金は受取れぬじゃないか、檜山を訪ねれば金の出所もわかるだろうといっておいたが」
「檜山六三郎から届けてきたのですか」
「川上が檜山に会ったら、田中さんは軍費を調達されたはずだといっとったそうだ。古河の細工はそんな工合だ」
「それで中傷の根拠がわかりました。買収に失敗したので逆に流言を放ったのですね」
正造はそれには答えず、黙って床の間へ眼をやった。
――家を毀ち人を傷け火を放ち、民の煙はいかに立つらん。
二年前の自分の述作が粗末ながら表装されて懸っていた。足助の父もまた草鞋ばきで運動してくれた当時の激しい選挙干渉の模様と、その山川とがまざまざと思い浮べられた。
その翌日、正造は毛野村、富田村を経て吾妻村の下羽田へ来た。ここから渡良瀬川を越えれば、一里余りで館林である。
庭田恒吉の家の傍で俥を下りると、正造は広い竹藪をぬけて河岸へ出た。西日をうけた河原のところに玉石を混ぜた砂礫が堆高くもりあがっていた。どこから押し流されて来たのか、過ぎし洪水の威力を思わせる大木が、まだ枯葉をつけたまま土砂に埋れていた。砂礫のたたずまいもその色も荒涼としていて、なにか洪水の荒々しさが違って来たかんじだった。彼方を割って流れている川水も、曇天のせいか黒ずんでいて、底深く毒を含んだ色かとも眺められた。寒い川風に袴の裾を吹かせながら、正造は竹藪の騒々と鳴る音にも気づかぬ様子で立ちすくんでいた。
「やア、なにしていなさる?」
声をかけられて振りむくと、自分と同年輩の庭田の父が傍に突っ立っていたが、赤黒い顔に片眼を光らせながらニヤリとして、
「俥屋さんがあんたを乗せて来たというから、広島の話でも聞こうと思って渋茶を入れて待っておったのに、出てきて見れば弁慶の立往生じゃ」
正造はまた川原の方を見返しながら、
「源八さん、川床が非常に高くなったようだが……」
「そうさね、年々の洪水で高くなるばかりだ。この間、前庭の地面を掘ってみたら二三寸の厚さに何段にも層になっていた。洪水の度ごとにそれだけずつおいていったわけです。そんな工合だから川床の方は一度の洪水で五寸も一尺も高くなるにきまっている」
「ふん、ふん、それにちがいない。古河の奴、七千町歩という山林を濫伐しておきながら、またこの戦争のどさくさにまぎれて銅山の周囲の山々の盗伐をやっておるということだ。そのうえ銅山製煉所の煙害というものが近隣一帯の山林を枯らす。あの山辺へ登って見ると、数里の間は西も東も目に見える限りが禿山になっている。いかに悪事でも噂だけで人は責められんから、わしは人を調べにやった。実地を見てきたものの報告がその通りだ。煙の中に一種の灰が混っていて、この灰が触れると忽ち葉が枯れる。木ばかりではない、笹も草も苔まで枯れてしまった。それでは山の土石が崩れるにきまっている。山林が密生しておって、木の根が棕梠の皮のように絡んでいるからこそ、土砂岩石の崩れようとするものも固く支えているわけだが」
「それに洪水の度に川の淵が埋るうえに毒水が来るので、もう何年来まるきり魚の影もみない。漁師は無論いなくなったし、私など年寄りの楽しみもなくなりましたよ」と、源八は虚な笑声をたて「以前だと、今頃から冬へかけてよく筌を仕掛けたものです。面白いのは俵筌というやつで、竹で差渡し三尺長さ二間位の大籠を作って、これに薦を巻いて中には板とか笹ッ葉とか藁とか蕎麦がらとかを入れて伏せるのですが、鮒、鯰、大蝦、雑魚などが四五斗も捕れたもんです。もう三十年も前の話だが、舟津川の小野文右衛門という人が一人で揚げきれずに三四人呼んできて引きあげたところが、三枚の莚へ隙間なく三石とれた。まアこれなどは一世一代です。ハハハ……。今の若い者は、そんな話をしたって誰も本気にしやしねえ」
正造は全く話を聴いていなかったように、
「これはどうしても、一度は大きな山崩れが来ますぞ。災難を予言するようだが、このまま放っておけば必ず山崩れですぞ」
また一陣の強風が吹きつけて、背後一面の竹藪を騒がした。そこへ恒吉が家へ入れといって彼等を呼びに来た。正造は連れだって竹藪を抜けながら、収穫のことを訊ねた。
「お話になりません」と恒吉は暗い顔をして首をふった。
「御承知の通り本家新宅の周りに十五町ある田地ですが、多少収穫のあったのは桑ぐらいのものです。せっかく表土を一尺も二尺も取り除けて作ってみても、風が吹けば毒砂が落ちる、雨が降れば毒水が流れるという工合で、芽が出かかったのもみんな枯れてしまいます」
「なるほど」と正造は感に堪えぬ顔をして「この辺もだいぶ毒塚が増えたから、なにか多少は収穫もあるからの努力だろう。途々そう思って見てきたが」
「百姓は駄目だとわかっていても、作づけはしないじゃおられないのです」
本家は二階建のいかにも豪家らしい造りである。座敷へ通ると、正造は恒吉の口から更に意外な話をきかされた。足利郡の郡吏青木某というものが最近この附近の村々へ出張して、被害民が困窮しているのにつけこんで、田畑一段歩について三四円ずつの金を与え、爾後どんな事故が生じても苦情がましいことは一切申し立て間敷という、永久示談の契約書に捺印させようと計っている。脅迫がましい態度で強制しているということだった。
「まるで古河の手代のやる仕事だ。どうせ古河から金をもらっているのだろうが、いくら金が欲しいからといって、いやしくも役人という肩書の人間が、古河市兵衛の奴隷になるとは怪しからぬ。しかも今日をどういう場合だと心得ている。怪しからぬ奴だ」
正造は顔を赤くして大きな声でどなりだした。そのけんまくに驚いて恒吉は黙ってしまったが、源八が傍から、
「田中さん、そう私等に怒っても仕方ない」
と苦笑するのを、正造は三角の目を向けてキッと睨み返し、やがてようやくわれに返ったように肩を落して、
「いや、どうも……。お前さん方を怒ったわけではないが、そういう話をきくとわしはついカッとするので……。それで、この村にもそんな永久に苦情をいわぬなどという契約に判を捺した者がいますか……」
「一人か二人はあるかと思います」恒吉はちょっと正造の顔を盗み見て次をつづけた。それがその欺きかたもいろいろで、足尾銅山はもう鉱脈が絶えてあと一年ぐらいしかもたぬから、今のうちに二円でも三円でも取れば取り得だ。お前だけに内証で話すが、などともちかける。それでもいうことをきかず、金をとらぬ、判を捺さぬというと、今度は脅嚇する。無頼漢に酒を飲まして差し向けてよこす。ついに二三日前にもこんなことがありました。この先の横塚吉五郎という人ですが、夜、家の外へ呼びだされて無頼漢に撲られたそうです。貴様が金を取らぬから他人も取ることができない。人の迷惑をかえりみぬ懲だ。そういって散々に撲られたそうです」
ようやく胸の裡におさえかけた憤りがまたせきあげてきた。「偶※(二の字点、1-2-22)正直な者がおれば、それを保護しなければならぬ立場のものが、暴力に訴えるとは言語道断なはなしだ。こんな奴は日本にとって獅子身中の虫だ。虫けらだ。こんな小役人の悪事を改めさせることができないようでは、日本は戦争に勝っても腐敗堕落する一方だ。なんだ、人の迷惑をかえりみぬとはどっちのいうことだ。そういう奴は、人相をそういって早速駐在所へ訴えたがいい。泣き寝入にしておいてはいかぬ」
正造は袴の膝で握り拳をふるわせながら、猛りたって怒号しつづけた。
「暗い晩で、顔はわからなかったそうですが、隣りの者が巡査を呼びにいって、巡査が立会って傷の模様はよく調べて行ったそうです」
「それならば、警察でどう処置をつけてくれるか、ウヤムヤにならぬようによく監視していなければならぬ。あんた方も他所事と思わず、兄弟のことだと思って助けてやって下さい。そうして、そんな乱暴が跡をたたぬようなら、事情を細かく書面に認めて県庁へ訴え出るようにしなさい。県庁で駄目なようなら直接内務省へ送り届けなさい」
恒吉は愁わしげな目付で正造を見かえり、
「その役人は郡長の代理だなどといって来ます。それほどですから、どこから内命が出ているか、知れたものでありません」
その辺のことは臆測しないではなかった。正造は恒吉を見つめて無言のまま深く頷き、
「だいたい前にも示談契約で瞞されていながら、まだ目がさめないのか。一反に二円や三円の金を取って、永世子々孫々まで苦情をいわぬなどと、そんな馬鹿々々しい書附に決して判を捺してはならぬと、あんたから村の人たちに十分教えてやって下さい。われわれとしてはどこまでも政府に請願して、銅山の鉱業を停めさせるよりほかに途はない。また、立派にそうする権利が与えられている。それだのにその大切な権利をわずかな金銭で永久に売り渡すようなことをしては、自殺するにも等しい。権利は根本のものだ。慾というものは天地のように大きな慾でなければいけない。そういってよくよく判るまで教えてやって下さい。わしはこれから渡瀬村へいって今夜は雲龍寺に厄介になる。また村の若い人たちに集ってくれるように頼みます」
間もなく正造は暇をつげて忙しげに俥に乗った。
このとき正造の聴かされた永久示談の陰謀は、その後も各地の村々へ執拗な手が延ばされた。郡吏が出没して被害民の弱点につけこんで脅迫や甘言や、躍起の強要がくりかえされた。翌二十八年の三月、庭田達はその弊に堪えかねて、同村字高橋、毛野村字川崎、富田村字奥戸などの有志たちをかたらって、内務、農商務の両省へ哀訴の書面を出すに至った。だが、一方では、下都賀郡部屋村外四カ村の総代が三月十六日附で鉱業人と永久示談の契約を交したのをはじめとして、順次各村で同様の契約が結ばれていった。条件は屈辱的で最悪だったにもかかわらず、しかも彼等に手渡された示談金は前回のそれよりも遙かに少額であった。
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底本:「渡良瀬川」新泉社
1972(昭和47)年7月1日第1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「簑笠」と「蓑笠」、「雲龍寺」と「雲竜寺」、「汎濫」と「氾濫」、「我我」と「我々」、「頓着」と「頓著」の混在は底本通りです。
※誤植を疑った箇所を、「渡良瀬川」講談社、1970(昭和45)年12月20日第1刷発行の表記にそって、あらためました。
入力:林 幸雄
校正:富田晶子
ファイル作成:
2016年7月19日作成
青空文庫作成ファイル:
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「金+盾」、U+934E 13-上-9、13-下-3
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「足へん+闌」、U+8E9D 135-下-9
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